yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

魂の奥底まで響きこむ尺八のムラ息に気迫のノイズ吹きすさぶ諸井誠『竹籟五章・対話五題』ほか

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一尺八寸の竹筒一管、穴(4+1)の5つに斜めに切り込んだ歌口という単純極まりない楽器であるがゆえに、ほとんど人間の技のみにてすべての音が吹き出される。誰しもが一度は見たことがあるような独特の(俗に首振り)吹奏スタイルである。≪唇を歌口にあてる角度を変化させて音を上げ下げする。音色は息の強弱、指孔の変形により変化する。ユリ音(ビブラート)は、首を横振り、大振り、小振りにて行なう。楽器でなく法器(読経の代わりとしての宗教音楽)として渡来した尺八は・・・・(聴かすためのものでないゆえ―引用者)進歩の必要はなく、むしろその、シンプルな点が、精神性を強調した奏法を開拓したともいえよう。例えば竹藪を、嵐が吹きすさぶような、ムラ息、魂の奥底まで響きこむような、本音(ほんね)、虫の音に似た、玉音(たまね)等々…。魔笛というにふさわしい、変幻自在なこの不思議な楽器の未来への可能性は、無限であり、将来いかなる時代にも、変幻自在なのかもしれない。≫また≪尺八は元来楽器としてではなく、普化宗禅宗の一派)の法器として日本に渡来し、読経の代わりにこれを用い、普化宗以外の者の吹奏を禁じた。ということは、みずから「一音成仏(いちおんじょうぶつ)」、「吹禅(すいぜん)」、「虚無一声(きょむいっせい)」といった言葉が示すがごとく、他人に演奏を聴かせる等の目的でなく、自己の内的なるものに強く働きかける音の世界であり、また、人間の怒り、苦しみ、悲しみ等を、すべて一管に託して、心のよりどころにした器である。こうした孤の世界といったものを強く求めた要因により、他の音楽には類のないひと息、ひと節の無拍(無拍子)の楽曲が数多く誕生した。これらの演奏について奏者に要求されるものは必然的に小手先のテクニックでない、気迫とか精神性が強く要求されることとなった。≫(酒井竹保)今回の採り上げるアルバムは現代音楽作曲家、諸井誠(1930)による尺八曲『竹籟五章』(竹籟とは風に吹かれて竹がたてる音、転じて笛の異称とのこと)、『対話五題』と伝秘曲『真霧海篪』(真shin 霧海mukai篪<ji>―【篪】チ、ふえ、〔説文〕に「管の樂なり」とし・・・竹管一尺四寸、七孔あるいは八孔の横笛である。<白川静・字統>)の古典曲が収録されたものである。奏者は大阪の竹保流家元名手、酒井竹保、酒井松道の兄弟。先代竹保の本曲尺八演奏に触れ≪思いがけない現代感覚に驚嘆し、深い共感を抱いて≫(諸井誠)作曲に思い至ってのことだそうである。とりわけ酒井竹保、酒井松道の兄弟で一尺八寸の標準管と二尺四寸の、長短二本のために書かれた『対話五題』はあたかも剣豪のやいば向け合うごとくの両者のインタープレイ≪音の長さ、強弱、ヴィブラートおよびそれに類する尺八固有の音程の微妙なふらつき、音色とその様々な変化のさせ方、アタックにおけるノイズの活用に聴く強烈な(ムラ息など)の表現、間の取り方≫(諸井誠)に凄みと気迫あふれるパフォーマンスにことのほか圧倒されることだろう。二尺四寸の竹管が放つムラ息奏法(サワリと称されるひとつの音がその音自身の中で他の音に触れるように、ない交ぜるある種ノイズ)の強烈極まりない<気><息>の激しいノイズ音で、対者標準管の一尺八寸に迫るインプロヴィゼーションはきっと聴くものを放さないであろう。また伝秘曲『真霧海篪』(shin mukaiji)の古典曲も霧深き海に聴く、またあるいは霧晴れた虚空に聴くという幽そけく深い<気>に満ちたスピリチュアリティあふれる尺八寸の音色に心ひたひたと静寂に修まることだろう。いずれにせよ、自然を抱き込んで自然とともに竹筒を吹き抜けるノイズを伴うゆらぎの音の姿にかくまで深遠な精神性を深く感じさせる尺八といものの類を見ない世界を聴くこと必定であろう。

杉浦康平松岡正剛)――そういう(本来的に音楽のあるべき自然との同質性に近づこうとする方法―引用者)ナチュラリティを志向している形式はないんですかねえ。楽器にはありますか。

武満徹――尺八ですね。東西を通じても尺八くらいのものでしょう。

                     武満徹「樹の鏡、草原の鏡」(新潮社)


               【 篪 】――竹冠+雁垂れ+虎というややこしい漢字