yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

論理が招きよせた不思議神秘の土俗が際立ち響くヤニス・クセナキス『Polla Ta Dhina for Childen’s Chorus and Orchestra』(1962)ほか

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Iannis Xenakis- ST/10 (1/2)

           

     ≪あり得ぬことをあり得ぬと解っていれば
         語れぬものを語ろうとはしない
             語れぬものを語れぬと解っていれば
                 知るべきことを知ったのである≫(津島秀彦)
                   (松岡正剛+津島秀彦『二十一世紀精神』・工作舎より)
知ることができないものがある、ということを知ってしまった複雑系の現代、ヒトはより一層薄明の境域に揺らぎ不安と共に在る。知の拡大精緻、部分化はますますの複雑を呼び寄せ、全体の茫洋としたあてどのなさを招きよせる。部分をいくら寄せ集めても全体とはならない不思議さ。けっして全体とならない部分と部分の隙間にこそその得体の知れなさとして神を招じ入れもする。そこでは絶対の飛躍が要求されるのだ。養老孟司が生命のかけがえの無さ、その全体性をいうとき、ヒトは一匹のハエ、蚊ですら、その一度失われた生命を復元することはできないといっていたと記憶する。生命という全体は要素部分・器官をつなげあわしても生命=全体とは決してならない。点の集合が決して直線とならないように、そこにも飛躍を必要とする。連続として、全体として存在する自然は分節、飛び飛びの点の集合として近似的にしかヒトには認識再現できない。ここにも飛躍がある。危うさがある。不確かさが横たわる。つねなる絶対根拠の不確かさがある。それゆえ空隙埋めるものを別の系からメタとして借りてこざるをえない。したがって、その系での無矛盾性はトートーロジーに帰結する。≪ものを見るとはどういうことであろうか。われわれの目に入ってくる対象物とは、じつは点の集合であり、それを思考に置き換えた場合、囲りがぼやけている。したがってぼやけてしまったものを、もう一度とり出して描くということはできない。人間は決して自然を再現できない。≫(津島秀彦)(『二十一世紀精神』より)。≪物質の存在とはそれ自身において自立するすべはなく、全存在の成立と同時に成立するということであり、そこには幾何学が物質を決定するのではなく、物質が幾何学を決定するような論理が作用している。≫≪ヒトが視ようと視まいと、ものはある。存在とはせいぜい「存在の概念」でしかない。≫論理と存在。自分自身を自分自身で証明することは出来ない。曖昧さとはそれゆえ現存在、人間にとって本源である。他者の介在を<無>を本質としてもつ。≪自然に論理学を読む方法は軌道論的である。神に罠をかけるのだ≫斯く私たちヒトは自然と対峙しているのだ。≪自然があり、混沌があり、ついで構造があり、要素が生まれ、擬構造が輩出してふたたび構造があり、やがて混沌さえ構造となって、やはり自然に落ち着く。≫(以上引用文すべて松岡正剛より)数学・論理学を自らの作曲技法に導入して画期をなし1950年代無調の世界に衝撃を与えたヤニス・クセナキスIannis Xenakis。単なる特異独創の音響創造に尽きるものでない、その論理と自然の哲学思想は群を抜いて音楽史に名を残す。よしその作品群に聴く民俗性の独特は神秘に謎めいた響きを帰結した。論理が招きよせた不思議神秘の響きが、斯くまで土俗を際立たせるとは、形容し難き飛躍するクセナキスではある。A面ソフォクレス「アンチゴネー」をベースに「人間賛歌」として作曲された『Polla Ta Dhina for Childen’s Chorus and Orchestra』(1962)、以下論理数学手法使用のもとIBMコンピュータ計算処理施されたデータを下に作曲された『St/10=1-080262 for Ten Instrument』(1956-62)。B面『Akrata for 16Wind Instruments』(1964-65)、『Achorr psis for 21Instruments』(1956-57)が収録されたアルバム。たぶん70年初期のものだろう。衝撃のクセナキスサウンドワールドとの出会いの頃の私にとっては思い出深いアルバムである。ちなみにアルバムの円形切抜き画像部分は収録曲「Achorripsis」(1956-57)のスコアーのものです。



Iannis Xenakis - ST/4-1,080262





以下オブジェマガジン『遊』<1008>(1979)掲載のインタビュー記事より再録――

《つまり、音楽における時間とは順序(オーダー)であるということ。前とかあととかを指定することができる。それはまた構造の基礎でもあるわけだ。……記譜法を見ても、ピッチと時間が同じ原理で表されている。……ピッチの領域も時間の領域も、我々の頭の中にある同一の基本構造に根ざしている。この構造は1,2,3,4、という数の基本にもなっているので、音楽を、画像や時間と同時に、数学と結合させることも可能になる。……実はこれは何千年も前にすでに音楽を通じて行われていたことなのだ。》

《もう一つ、アート全般、そして自然へのアプローチの基本的観念としてあるのが、反復と周期性の問題だ。何かがあるとすると、そのものの順序は反復されなければならない――そのものだけでは有限だからだ。反復するには、コピーをしなければならない。完全に同じか、少し違うコピー。周期性は自然の基本的特徴だ――光、原子、星の一生、銀河の一生はもちろんのこと、遺伝学でもそうだ……そうすると、この周期性、それに忠実な複製、反復という要因から、いかなるゲームが登場するか。――これは、宇宙の全般的在り方、というか宇宙の終わりの在り方につながる問題だ。》

☆――――反復の過程で少しずつ誤差が生じてくる。これがないと、また継続がない。異常発生があるからふつうの発生がある。

《そのとおり。まったく同じものを複製するシステムは自然にはない。観念においてのみ、完全な複製がありうるのであって、自然や人間の過程の中では、それはありえない。》

☆――――つまり創造とか独自性といったものが、どこからやってくるのか……

《……たとえば、ある規則をはじめて発見した人がいて、その後、数世代にわたってその規則が使われたとする。これは果たして単なる発見だろうか、それとも創造だろうか。何かを明らかにするということの中には、つねに創造的要素がある。というのも、認識したこと、見たこと、聞いたことを、そのまま明示することは完全にはありえないからだ。だから、解明プラス創造というプロセスがあって始めて、伝わりもするし、共感も呼ぶのだと思う。》

《周期性と、反復、複製という基本的考え方について言うと、これは決定論と非決定論の考え方と関連している。したがって、確率の問題と関連している。……無からの創造という立場も、この問題を抜きにしては語れない。》

《「思考すなわち存在である」という紀元前五世紀のパルメニデスの言葉があるが、私は、これは今までに書かれた最良の思想だと思っている。何かが存在していれば、それは思考を喚起する、という対称関係、照射を言っているのだと思うのだが。……ところが、理論が別の実験によって覆されたりしてくるうちに、「存在している。現実はこれだ」という言い方がまったくされなくなってきた。その代わりに、「理論的には」ないしは「実験においては」と、どちらかの枕詞を置いて区別するようになった。つまり、知ることができないものがある、ということを知ってしまった証拠だ。》

☆――――クオークなんていうのもそうですね。見えなくても、その存在を措定する。

《物質のそんなディテールにおりるまでもなく、光にせよ、森にせよ、光を光と呼び、森を森と呼ぶ、その単位をどこで決めているのか。われわれの意識、閾値がそれを決定しているに過ぎない。色や形にしても、われわれに見える幅の中で、存在の輪郭を区切っている。時間観念、時間の流れについてもそうだ。何百万年、何十億年の流れの中で出来上がった人間の時間感覚を、われわれは「時間」と呼んでいる。……紫外線、ガンマー線や赤外線は見えないけれども、やはり存在している。もしわれわれの眼にこれが見えたら、世界はまったく違う像を提示してくることになる。音でも同じことだ。》

《宇宙の認識、すなわち自己の認識において、われわれがいかに無知であるか、いかに多くのことを知らないか、ということだね。》