yuki-midorinomoriの日記

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赤貧洗うが如しのこのポートレートはいったい誰?

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このまさに赤貧洗うが如しのポートレートはいったい誰?背景にある、障子紙の代わりに新聞紙を使ってあるこの破れ障子。しかもご当人のメガネの左側のレンズ枠は破損でもしたのかすでになく、たぶん和紙をニカワか何かで固めて代用しているのか、左右ちぐはぐである。貧に窮した零落の長屋のアルジよろしくの風情である。この人物なにあろう、小中学校の教科書で必ずその名登場してくる偉大な学者先生である。西洋文明文化に追いつき追い越せの近代化まっしぐらの明治時代、西洋医学・細菌学での北里柴三郎と同様、比類ない業績としてその名が必ず挙げられる志賀 潔(明治3年・1871 - 昭和32年・1957)である。赤痢菌の発見者として学んだことであろう。(とりわけ感染症予防・保健衛生普及向上はもっとも国民生活にとっては大事なことで、医療技術発展もさることながら、それ以上にその寄与大なることが指摘できるだろう。戦後飛躍的に平均寿命が延びた要因も基本的にはそこにあるといわれている)1944年には 文化勲章が授与されている。そのリタイヤせし偉大な学者の文化勲章受賞後わずか五年経ての1949年、当年78才のときの写真影像である。目にしたときの一瞬のおかしさに笑いはするものの、この赤貧の姿にこみあげる切なさを感じない人はいまい。祖父の時代を思い、父の世を思い胸がざわつき、眼睛潤むことだろう。このポートレートは非演出・リアリズムの巨匠といわれた写真家土門拳の眼差し・手によるものである。


<志賀博士は、丸顔の小さなお爺さんだった。村夫子然たるもんぺいをはいていられたので、余計小さく見えた。自分で修繕した眼鏡をかけて、ポール・ド・クルフの「細菌の猟人」を読んでいられた。ぼくたちの突然の来訪、非常に喜ばれて、とっときの煙草などの封を切って、すすめられるのだった。病身の息子さんと、その奥さんと、三人のお孫さんが一緒に暮らしていられた。随分貧しい暮らしのように見受けられた。障子一面に新聞紙が張ってあった。つまり、障子紙の代わりに新聞紙を使ってあるのだった。だから部屋が重苦しく暗かった。僕は撮影の旅で方々の農村も歩いたが、こんなひどい障子は初めてだった。志賀博士が明治三十年に赤痢菌を発見して以来、今日までに人類が受けた恩恵は、決して少なくない筈である。しかもここに、その発見者は、赤貧洗うがごとき生活に、余生を細らせているのである。僕たちはひどく矛盾を感じないわけにはいかなかった。博士は僕たちが所望したので、文化勲章を見せて下すったが、勲章というものは凡そ貧乏臭さのないものだけに、ボロボロの畳の上で見ると、その金銀のあでやかさも、何かそらぞらしいものに思えた。「自分の選んだ学問を通じて人類の福祉に貢献する事。それだけである。而して自分の五十年の仕事は貧しいながらその為の捨石にはなり得たであろう。これが私の自らひそかに慰めとする所である」と博士は「私の信条」に書いていられるが、博士のような人に対して、僕たちとして、それで済むわけのものでない。その日の夕暮れ、僕たちは博士一家の人々と、丘の上と下で、手を振りながら別れを告げた。お孫さんたちが、いつまでも小さな手を振っているのが、何か切なかった。やがて、それも松林の陰に見えなくなった。僕たちは、砂地の道をポクポク歩きながら、思い思いの考えに沈んでいた。1949・6・28 「風貌 土門拳 志賀潔から」>