墓碑銘は、「されど、死ぬのはいつも他人」。マルセル・デュシャン
墓碑銘は、「されど、死ぬのはいつも他人」。
マルセル・デュシャン――・・・・あなたはウィーンの論理学者たちの話を知っていますか?
カバンヌ――いいえ
マルセル・デュシャン――ウィーンの論理学者はある体系を練り上げたわけですが、それによれば、私が理解した限りでは、すべてトートロジー、つまり前提の反復なのです。数学では、きわめて単純な定理から複雑な定理へといくわけですが、すべては最初の定理のなかにあるのです。ですから、形而上学はトートロジー、宗教もトートロジー、すべてはトートロジーです。このブラックコーヒーを除いて。なぜなら、ここには感覚の支配がありますから。眼がブラックコーヒーを見ている。感覚器官のコントロールが働いています。これは真実です。ほかの残りは、いつもトートロジーです。
写真:"Erratum Musical"デュシャン自筆スコアー ↓
Duchamp: "Erratum Musical"
つまりは、「どんな理論体系にも、証明不可能な命題(パラドックス)が必ず存在する。それは、その理論体系に矛盾がないことを、その理論体系の中で決して証明できないということであり、つまり、おのれ自身で完結する理論体系は構造的にありえない。」ということであった。自己は自己自身を証明することはできない
理性により作り出した理論体系が真理に到達することは決してない!?。
≪人生はいまいましい罠です。思索的な人間が成年期に達して、成熟した意識もつようになると、その男は心ならずも自分が出口のない罠にかかっているように感じるものです。実際、人間は自分の意志に反し、ある偶然によって無から生に呼び出されているのです。……それはなぜか?彼は自分の存在の意味と目的を知りたいと思うが、誰も話してくれないか、あるいはくだらぬことしか話してくれないのです。そうするうちに死がやってくる。≫(アントン・チェーホフ)
≪『又淋しくなった。こういったことはみんな実にのろくさくて、重苦しくて、やり切れない……やがておれも年をとる。そうしてやっとおしまいってわけだ。たくさんの人間がおれの部屋へやって来た。連中はいろんなことをしゃべった。たいしたことは言わなかった。みんな行っちまった。みんな年をとり、みじめでのろまになった、めいめいどっか世界の片隅で。』≫(ルイ・フェルディナンド・セリーヌ「なしくずしの死」)
クルト・ゲーデル(Kurt Gödel, 1906 - 1978)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB
マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp, 1887年 - 1968)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3