デレク・ベイリーとスティーヴ・レイシーのデュオ『company4』(1976)。デレクの何もなさへの自己放擲、求めることのない、その凄まじいプロレタリアート・無産者としての精神の強靭には驚くばかりだ。
いつだって悪くない時代なんてなかった。闘いが困難でなかった時なんてなかった。それ故に私達の可能性がためされているのです。(スティーヴ・レイシー)
さて今日取上げるは、拙ブログで毎度おなじみのノンイディオム・インプロヴィゼーション・ギターの、希代の演奏家であるデレク・ベイリーderek bailyと、若きセシル・テイラーの革新のユニットに身を投じはすれど、何かその音楽的な立ち位置がいまいち私にはよく分からないソプラノサックス一筋のスティーヴ・レイシーsteve lacyとのデュオ・アルバム『company4』(1976)。イギリス、インディペンデントレーベルのインカス INCUSより出されている先鋭なフリージャズパフォーマンスのドキュメントのうちの一枚。フリージャズ、いや即興演奏音楽史に燦然とその業績を刻んでいるシリーズであると、ひとまずは言い募っておこう。同時代にこうしたムーヴメントに聴衆者と謂う限定された立場ながらも併走し得た僥倖は感謝しなければならないだろう。イギリスのインカス、ドイツのフリーミュージックプロダクション・FMP。そしてオランダのインスタントコンポーザーズ・ICP。私にとっては山下洋輔然り、武満徹もそうした一人であった。それにしても、デレク・ベイリーのこの即興演奏の<場>の決定力は、いつもながら唸るばかりで、これ以上に適切なことばが紡ぎだされないのは歯痒いことこのうえない。仏様のそれではないけれど、まるでデレクの手のひらの上で対者のパフォーマーが、解き放たれ自在無碍に演奏に遊んでいる風情なのだ。俗に謂うヘタウマなんていうものではなく、もう唯おのれを空しく解き放つ境域への飛翔の如きパフォーマンスに終始するのだ。それにしても、いつもながら、デレクの何もなさへの自己放擲、求めることのない、その凄まじいプロレタリアート・無産者としての精神の強靭には驚くばかりだ。そうしたことを感じさせてくれる一枚と括っておこう。。
≪大きく言って二つの方法があると思うのです。即興によって無に達し、そこから何かトータルなものを逆に浮かび上がらせるという、即興へ身を投げかける方法です。それは言ってみれば大海を泳ぎわたる泳ぎの名手のようなものです。この方法では私はかつてのソニー・ロリンズや現在のデレク・ベイリーをあげない訳にはいきません。それともう一つは、組織的、方法論的な即興の追及で、即興を方法的に作業づけ、即興と非即興の間に厳格な道をもうけ、聞く方法です。気ままさや偶然を排して即興の向こう側まで、泳ぎ渡ろうとする試みです。私の方法はどちらかと言うばこの方法です。私は即興の決して見えない向こう側へ即興のただ中から達したいという気持ちがあるのです。≫(jazz/1977/2-3「間章・スティーヴ・レイシーとの対話」より)
『Company 4』, Company, Derek Baily & Steve Lacy duo
1.Once Upon A Time
2.Abandoned 1
3.Abandoned 2
4.Step 1
5.Step 2
6.Happily Ever After
1.Once Upon A Time
2.Abandoned 1
3.Abandoned 2
4.Step 1
5.Step 2
6.Happily Ever After