脱俗孤高の画家『高島野十郎画集・作品と遺稿』。
「在るに非(あら)ず、また在らずに非(あら)ざるなり」 「写実の極致、やるせない人間の息づき――それを慈悲という」(遺稿ノートより)
やっと中央図書館のネット貸し出しで申し込んで借り受けの順番がまわってきた。以前から拙ブログに代表的というか代名詞的作品の「蝋燭」等の画像を貼り付け取り上げてきた孤高の画家≪写実を究めんと名利を捨て脱俗孤高の画家人生を生涯一人身で自給自足の人里はなれた茅葺小屋に送り、生前認められることなく、特別養護老人ホームにて85才の人生を閉じた高島野十郎≫の『高島野十郎画集・作品と遺稿』がそれ。この作家の画を鑑賞するということはもちろんなのだけれど、遺されたことば、いや歌が、その文才あるを示していて興味をもったということもある。ごく僅かのページでしかなかったけれど、興味を持って読むことが出来た。前にも引用したけれど、もっとも印象深かったのが辞世の歌とされている
「花も散り世はこともなくひたすらに たゞ赤々と陽は照りてあり」
この透徹した、人<生>への観照。ブログにも記したけれど、<生>への愛おしさ慈悲だけだろうか、私には≪私の限りある尽きようとする命など一顧だにせず自然は無慈悲にも永遠の変わらぬ姿のままにある・・・。≫といった虚無的な諦観をすら感じるのだが。さてどうなんだろうか。次の歌も遺稿ノートにあった。
「誰がために.こ々には咲くぞ山櫻、又音もなく散りはてし行く」
「誰がために咲くや山奥山櫻、又音もなく消え散りて行く」
誰に見てもらうでもなく咲き、そして散ってゆく草花。孤高の画家の人生を二重写しにするが如き歌でもあることだろう。そは、まこと斯く在るか。
「(なに故にこの野に立ちしか知らねども)
この野辺に立ちゐて思ひも更になし
東も西も日は暮れてゆく」
この野辺に立ちゐて思ひも更になし
東も西も日は暮れてゆく」
「なにごとのおはしますをばしらねども かたじけなさになみだこぼるる」 西行
自然のなすがまま、孤愁に時は過ぎてゆく。
「山路行くさびしきものとは思はねど
つれ人なきぞなほゆたかなり」
つれ人なきぞなほゆたかなり」
「一人行く山路けはしといふなかれ
つれ人なければ思ふことなく」
つれ人なければ思ふことなく」
「つれ人なきぞなほゆたかなり」とは、なにか。「つれ人なければ思ふことなく」とは、なにか。仏への帰依。煩うことはない、慈悲でもあるというのだろうか。
下記の野十郎の遺偈(ゆいげ)に通底するか。
「足音を立てず
靴跡を残さず
空気を動かさず
寺門を出る
さて
袖を拂ひ
裳をたゝひて
去り歩し行く
明々朗々遍無方」
靴跡を残さず
空気を動かさず
寺門を出る
さて
袖を拂ひ
裳をたゝひて
去り歩し行く
明々朗々遍無方」
画は上「林径秋色」(1963)、下「からすうり」