yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

外山雄三『オーケストラ作品集』(1999)。こうも露骨に、無媒介直接的で能天気に<ニッポン>されると・・・。まさに≪でも{日本の国民音楽}ってこういうの?≫。

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Yuzo Toyama: Rhapsody for Orchestra / Hiroshi Ohguri: Fantasy on Osaka Folk Tunes

           

イメージ 2かつて戦意高揚のための国策戦時大衆歌謡や音楽があった。きょうとりあげる指揮者で作曲家でもある外山雄三(とやま ゆうぞう、1931 - )の『オーケストラ作品集』(わが町の図書館で借り受けたもの)収録の民族性鼓舞、称揚と言っていいような無媒介で直接的な作品を聴くと、只今は、いちおう戦争のない平(へい)時とされているけれど、こうも臆面もなくモロに民族性を押し立てられると、なにか戦時と地続きではないのと気分穏やかでない。もっとも民謡、祭囃子等がモロ!に流用されているだけなのだけれど。我が民族の矜持も無く、いけないことだと思いつつも、こうも露骨で能天気に<ニッポン>されると、おのれの出自、チョンマゲ、フジヤマ、ゲイシャを恥じ入り隠したくなる。浮いて哀しい、恥さらしのオカメヒョットコのようだ。だけど、このアルバム収録のメインと思われる作品の「管弦楽のためのラプソディ」(1960)は国内外でも演奏回数の多い人気の邦作品なのだそうだ。ところでネット通販レヴューに、このアルバムに対しての以下の言葉があった。すなわち≪まず聴こえてくるのはオケの手慣れた扱い。次に典型的な民族的素材,音楽の手慣れた定石。ある種,職人的な作曲手腕。でも{日本の国民音楽}ってこういうの?≫。
そうです≪でも{日本の国民音楽}ってこういうの?≫・・・。斯くなる疑念、まったくそのとおりです。




外山雄三『オーケストラ作品集』(1999)

1. 管弦楽のためのラプソディ (1960)
2. 沖縄民謡によるラプソディ (1964)
3. 交響詩「まつら」 (1982)
4. フルートとオーケストラのための幻想曲(1989)
5. 花を捧げる(1964/77)