yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

フランシス・プーランク『ピアノ協奏曲集』。ドイツ音楽の≪・・・武器であった高い知性による熟考の賜物≫などとのこの差別化。≪このシンラツ。けれど、たぶんこの通りだと私は思っている。いや思っていた。≫

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Francis Poulenc (1899-1963) : Concerto pour piano (1950) 1/2

           

あまり好みでなかったら、投稿を控えればいいのにと思うのだけれど。乗りかかった船だ。だいぶ時間も経ってしまったということもある。いまさら他に乗り換えるのもシンドイことだといことで、きょうはネット図書館で借り受けたフランシス・プーランク(Francis Jean Marcel Poulenc , 1899-1963)の『ピアノ協奏曲集』。愛嬌のある親しみやすいメロディーでおもしろいことは面白いのだけれど・・・。この軽さはどうも苦手、付き合えない。前も≪フランシス・プーランク『ピアノ作品集』。吉田秀和(1913‐)がなぜに今プーランク!ということで、遠ざけてきたこの作曲家のお勉強。≫とタイトルし投稿したのだけれど、そこで散々嫌味なことばを投げかけたので、もうこれ以上を云わないでおこう。と云いつつ、舌の根も乾かないのに、他人様の意見の尻馬に乗っかるわけではないのだが

【脈絡のない多様な楽句を楽しみながら連結させることによってただ先へと曲を進めるのも彼の作品にたいへん多く見られる手法であるが、逆に、主題や素材を展開させながら知的に構築することは非常に苦手とされる。

どちらかというと熟考型の作曲家肌ではなかった彼は、多くの発言力を素材の展開に依存せず多様性で間を持たせる傾向がある。若年のモーツァルトに見られた同じ傾向でもそうであった

ロマン派では音楽の流れを長く保ち、その途切れをいかに絶妙に処理するかという妙技が競われたが、ワーグナーリヒャルト・シュトラウスが殊に息の長い音楽を書くことに成功したのは、彼らのひとつの武器であった高い知性による熟考の賜物であると言えよう。それに対してプーランクの旋律は、類似した旋律が様々な作品の中に見出され、それらはどれも長続きすることはなく、思いついたかのように強制的なカデンツァ(終止)に突入するという定型が認められる。それによって多くの音楽は途切れ途切れになってしまい、作品全体としての有機的な結びつきを求めることは困難である。

主題的操作を見事に展開したり素材を計画的に構築するという技術的素養の甘さ】(以上WIKIより)

このシンラツ。けれど、たぶんこの通りだと私は思っている。いや思っていた。先の投稿記事でも≪なにか、精神の病、観念(思考)奔逸とでもいいたくなるような、まとまりの無さ。脈絡の無さ。これを軽妙洒脱というか・・・等々。しょうじき斯様な思い込みを刷り込ませた作曲家(たち)だった。≫と私も印象を記していた。べつに深刻、重くて暗い芸術が真正だとばかり思いはしないけれどキャバレーや、レヴュー(revue)の猥雑な軽さも、時にはともかく・・・。しょっちゅじゃ・・・オモロナイ。軽佻浮薄だ。ドイツ音楽の≪・・・武器であった高い知性による熟考の賜物≫などとのこの差別化。≪このシンラツ。けれど、たぶんこの通りだと私は思っている。いや思っていた。≫

最後に、プーランクファンの皆様怒らないでください。

≪軽快で旋律に富む一面と重厚な和音と振る舞いという一見正反対とも思える彼を「ガキ大将と聖職者が同居している」と評す者もいた。≫(WIKI)そうですから。





フランシス・プーランク Francis Poulenc『ピアノ協奏曲集』

1. 2台のピアノとオーケストラのための協奏曲ニ短調FP.61
2. ピアノとオーケストラのための協奏曲FP.146
3. ピアノと18の楽器のための舞踏協奏曲FP.51「オーバード(朝の歌)」