yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

J・S・バッハ『ヨハネ受難曲』(1964・カール・リヒター)。後期バロックの時代、神はヨハン・セバスチャン・バッハに最も近く寄り添い賜うたのだと言いたくなる祈りと荘厳の音楽。

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Johann Sebastian Bach Johannes-Passion BWV 245

           

   憩え、安らけく、しかしてわれをも憩いに導きたまえ!

遅々として進まぬ(当然だ、嫌々ながらこなしているショウに合わぬルーティンであれば)雑事からなかば逃れるように、バックグラウンドで流されるわが町の図書館より借り受けたバッハ『ヨハネ受難曲』(1964・カール・リヒター)。
創造的行為の背後にバッハが流されているならともかく・・・、まこと、畏れ多く罰当たりなことではある。
だいぶ前、≪ヨハン・セバスチァン・バッハ『マタイ受難曲』LP4枚組み。音楽史上の奇跡、鳥肌立つ感動ものの究極の一枚。≫とタイトルし宗教音楽の最高傑作?の『マタイ受難曲』を投稿した。それに劣らぬバッハ『ヨハネ受難曲』。
くどいようだけれど下のことばを再度引用貼り付けよう。

「神を讃えることを唯一の目的としないすべての音楽は、音楽ではなくて混沌であり悪魔の騒ぎにすぎない。」(J・S・バッハ)

そして現代の混沌を超出せんと苦悩する作曲家のことば

   あまねく世界に神は存在し
   あまねく音楽にバッハは存在する
              アルフレート・シュニトケ


神を殺した近代以降、無価値、無根拠を浮遊する呪われたる現代の世界とひとびと。

<神はいるのだ。ただそこに人がいないだけだ。>との意味合いのことばを今思い出す。

後期バロックの時代、神はヨハン・セバスチャン・バッハに最も近く寄り添い賜うたのだと言いたくなる祈りと荘厳の音楽。

≪人が神を見ようとするのは、神がつねに人をみそなわしていると信じるからである。神は姿を見せないが、その識られざる神は、つねに下界を照臨したもうている。また時あって、人の世にも姿をあらわすのである。・・・≫(白川静「文字逍遥」平凡社)。

≪神々との交通のしかたは、神に祈りを告げること、そして神がそれに応える声を耳聡く聞くことからはじまるのである。・・音こそが霊なるものの「訪れ」であった。・・神の姿は肉眼にみえるものではない。ただその「音なひ」を聞くことだけができた。「きく」ことは、「みる」こと以上に霊的な行為であった・・≫(白川静「文字逍遥」・平凡社」)