yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

デレク・ベイリーの解体に傾舞く(かぶく)フリーインプロヴィゼーション

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夥しいほどのアルバムのはずである。いったい何がこのデレク・ベイリーの共演者としての吸引力であったのだろうか。ソロアルバム、デュオアルバム、その他数多くのコンボメンバーとのコラボレーションはひじょうな数になるのではないか。評論のプロあるいはフリークであればその膨大なリストをあげることが出来るのだろうけれど、私はそのうちの一部を聴いただけに過ぎぬフリージャズファンに過ぎないことを断っておこう。誰しもが先ず指摘するであろう、あのギターという古くから愛されてきた撥弦楽器が本来持つリズム、メロディー形成力を徹底して拒否し、なお且つそれに響きをさえうち殺した徹底的に無機質なギターの音のどこにコラボレートしてゆく魅力を見たのだろうか。確かにその異形の音色などの提示ゆえに定型からの解体的逸脱、中心軸から逸れ行き傾舞くことの数寄に投企するアバンギャルドプレイヤーにとってはインスパイアーされるところ大であったのかもしれない。このアルバムでなければといった理由は無い。この孤高のギターインプロヴァイザーがいるところ世界は異形の様相を示しだす。タイトな音空間の音連れになくてはならない唯一存在ともいえよう。誰もがその本来の音色に親しみをもち楽しませてくれ、かくも小さな手に携えることが出来る愛すべきギターという楽器を、奏法で革新し豊穣なインプロヴィゼーションをもたらすインスピレーションあふれるものとした多大な業績はデレク・ベイリーに与えられるべきだろう。独特の張り詰めた世界がギターという小さな楽器とともに現出するそのさまはやはり感嘆のほかない。多くの優れた演奏者がデレク・ベイリーとのインタープレイを作品に残したのも、その革新性ゆえに自らの才を唆されてのことであったのだろう。このアルバムの共演者であるイタリアのパーカショニスト、ANDREA CENTAZZOの詳細は知らないが、いわゆる単なるジャズドラマーの狭い世界のそれではなくデレク・ベイリーが開示する音風景の世界に応え得る鋭い感性の所有者であろう。あるべき音が有るべきところに納まっている。二人のインプロヴィゼーションによるコラボレートはうまくいっておりよいアルバムといえよう。