yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

神なりの世界、クセナキスの 『ANTIKHTHON』

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      http://jp.youtube.com/watch?v=jGKqysvvdn8 Xenakis: "Antikhthon" Part One

ともに1969年に作曲された『SYNAPHAI』、『ANTIKHTHON』と71年の『AROURA』が収められたアルバム。このおどろおどろしいまでの古代的なエモーションに満ちたクセナキスの作品を前に、よく言われる確率統計数学の抽象世界とはいったい何かと考え込まざるをえないほどの疑問が必ずと言って良いほど立ちのぼってくる。弦のグリッサンドに交錯する、鋭く圧倒的に部厚く迫る管の波状的な断続咆哮は、いっそう情動のウネリに拍車をかける。このような世界構築へと掻き立てる情熱とは何か。もうクセナキスはクセになると語呂合わせで洒落たくもなるほどに独創の世界である。おおよそ混沌無秩序の荘子的<気>になすすべ知らぬ畏敬が人に降り注ぐがごとく、成ることの秩序を意志する存在に音連れる、神なりの世界のようでもある。話は変わるが、マイフェイバリットのイサン・ユンはクセナキスのこの土俗・民族性に満ちた世界に大きなインパクトを受け、確信したのではないかと私は密かに思っている。そうでなければ50年代の彼、イサン・ユンの作風からの変化は余りにも大きすぎる。さてそのクセナキスのクセになる音楽の背景にある言葉の数々を前回同様、オブジェマガジン『遊』<1008>(1979)掲載のインタビュー記事前半より抜粋しよう。

《政治的音楽、アンガージェする音楽というものがちっともおもしろくないのも、そうしたことの結果(政治的な利用)だと思う。創造ではないからだ。創造するには、その領域の内在的発展原理を踏まえることが肝要であり、外在的力や原理に左右されるわけにはいかない。》

《つまり、音楽における時間とは順序(オーダー)であるということ。前とかあととかを指定することができる。それはまた構造の基礎でもあるわけだ。……記譜法を見ても、ピッチと時間が同じ原理で表されている。……ピッチの領域も時間の領域も、我々の頭の中にある同一の基本構造に根ざしている。この構造は1,2,3,4、という数の基本にもなっているので、音楽を、画像や時間と同時に、数学と結合させることも可能になる。……実はこれは何千年も前にすでに音楽を通じて行われていたことなのだ。》

《もう一つ、アート全般、そして自然へのアプローチの基本的観念としてあるのが、反復と周期性の問題だ。何かがあるとすると、そのものの順序は反復されなければならない――そのものだけでは有限だからだ。反復するには、コピーをしなければならない。完全に同じか、少し違うコピー。周期性は自然の基本的特徴だ――光、原子、星の一生、銀河の一生はもちろんのこと、遺伝学でもそうだ……そうすると、この周期性、それに忠実な複製、反復という要因から、いかなるゲームが登場するか。――これは、宇宙の全般的在り方、というか宇宙の終わりの在り方につながる問題だ。》

☆――――反復の過程で少しずつ誤差が生じてくる。これがないと、また継続がない。異常発生があるからふつうの発生がある。

《そのとおり。まったく同じものを複製するシステムは自然にはない。観念においてのみ、完全な複製がありうるのであって、自然や人間の過程の中では、それはありえない。》

☆――――つまり創造とか独自性といったものが、どこからやってくるのか……

《……たとえば、ある規則をはじめて発見した人がいて、その後、数世代にわたってその規則が使われたとする。これは果たして単なる発見だろうか、それとも創造だろうか。何かを明らかにするということの中には、つねに創造的要素がある。というのも、認識したこと、見たこと、聞いたことを、そのまま明示することは完全にはありえないからだ。だから、解明プラス創造というプロセスがあって始めて、伝わりもするし、共感も呼ぶのだと思う。》

《周期性と、反復、複製という基本的考え方について言うと、これは決定論と非決定論の考え方と関連している。したがって、確率の問題と関連している。……無からの創造という立場も、この問題を抜きにしては語れない。》

《「思考すなわち存在である」という紀元前五世紀のパルメニデスの言葉があるが、私は、これは今までに書かれた最良の思想だと思っている。何かが存在していれば、それは思考を喚起する、という対称関係、照射を言っているのだと思うのだが。……ところが、理論が別の実験によって覆されたりしてくるうちに、「存在している。現実はこれだ」という言い方がまったくされなくなってきた。その代わりに、「理論的には」ないしは「実験においては」と、どちらかの枕詞を置いて区別するようになった。つまり、知ることができないものがある、ということを知ってしまった証拠だ。》

☆――――クオークなんていうのもそうですね。見えなくても、その存在を措定する。

《物質のそんなディテールにおりるまでもなく、光にせよ、森にせよ、光を光と呼び、森を森と呼ぶ、その単位をどこで決めているのか。われわれの意識、閾値がそれを決定しているに過ぎない。色や形にしても、われわれに見える幅の中で、存在の輪郭を区切っている。時間観念、時間の流れについてもそうだ。何百万年、何十億年の流れの中で出来上がった人間の時間感覚を、われわれは「時間」と呼んでいる。……紫外線、ガンマー線や赤外線は見えないけれども、やはり存在している。もしわれわれの眼にこれが見えたら、世界はまったく違う像を提示してくることになる。音でも同じことだ。》

《宇宙の認識、すなわち自己の認識において、われわれがいかに無知であるか、いかに多くのことを知らないか、ということだね。》

☆――――ただ、存在は相互的照射の関係によって認知される、という考え方もできます。葉にたまった一滴の水に天が映ってしまうこともある。

《そう。しかも、その葉っぱにおいて、葉っぱ以外のところで起きていることのほとんどが起きている。―――ふつう、われわれの認識は一方的だから、そうは思わないのだが、―――とすれば、極小が極大を包摂するのは当然のこととも言えるわけだ。それで思い出したのが、ヘラクレイトスの「上にあるのも下にあるのも同じ」という言葉だ。》

《このことは、今日、パリティが破られたことで、数学的にも証明され、核物理学、核より微視的な物理学、そして天文物理学で同じ方法が使われている。でも、この方法で証明されるものは何もないかもしれない。》

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不確定、不連続が告げ知らせる<無>、興味深いクセナキス存在論=認識論の言葉の数々、後半部分はまたの機会としよう。