yuki-midorinomoriの日記

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不思議のざわめき、存在的郷愁のノイズ世界を聴くジョン・ケージ 『VARIATIONS Ⅱ』

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       ≪神は見えません。見えるとしたら、それはヴィジョンの中です。

                   神はきっと光とか信号とか情報のようなものです。≫

                           (松岡正剛『花鳥風月の科学』(淡交社


ジョン・ケージの『VARIATIONS Ⅱ』を良きパートナーであるデヴィッド・チュードアDAVID TUDORがアンプリファイドピアノサウンドをフィードバック、ジェネレターを使ってのレアリゼーション=パフォーマンスしたもの。

A面26分に亘る静寂をも取り込んだノイズの音連れは機械の中身、また、背後に興味を持つ少年の心を呼び覚ましてくれるもののようでもある。かつて工作での鉱石ラジオ、ゲルマニューム発光ダイオードラジオからかすかに聞こえてくる音、電波のあいまいな検波同調がつくりだすウエーブノイズは少年の心への不思議のざわめき、音連れであった。

≪……彼は雨に濡れたまま、アスファルトの上を踏んで行った。雨はかなり烈しかった。彼はしぶきの満ちた中にゴム引きの外套の匂いを感じた。すると目の前の架空線が一本、紫色の火花を発していた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケットは彼らの同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠していた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度うしろの架空線を見上げた。架空線はあいかわらず鋭い火花を放っていた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかった。が、この紫色の火花だけは、凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった……≫(芥川龍之介「ある阿呆の一生」より)

これは松岡正剛の『電気は文学である』なるエッセーからの孫引きである。電気がもたらす青白いスパークする鮮烈な光と音に不思議を感じる眼差しには《命と取り換えてもつかまえたかった》と言わしめる、なにやら存在のそこはかとない無に溶けいる消息の気配さえ感じさせる。電気ノイズにはこのような存在の無の気配の招来を感じさせるものがありはしないだろうか。ジージージーという何気なく発せられる電子ノイズに耳そばだてるこころにやってくるものとは、56億7千万年かなたより発せられる宇宙的涅槃の誘いとでも言いたくなる妖しさである。

≪電気には芳香と雑音とそして加速度が棲んでいる。≫(松岡正剛)、≪扇風機の雑音こそ美の脈動を秘めるものである≫(オスカー・ワイルド)。しばしの静寂のうちに一撃されるノイズの響き、深きところで沸々と持続鳴動するマグマアースノイズ、ノイズの電子編集に感性研ぎ澄ますデヴィッド・チュドアはまるでノイズの不思議の音連れを引き寄せるシャーマンのごとである。そんなことを感じつつの26分のノイズシャワーワールドであった。

B面1曲目はミルトン・バビットMILTON BABBITT (1916)の『ENSEMBLES FOR SYNTHESIZER』。アメリカ人での最初に12音音列作法、またトータルセリーによって作品をものしたうちのひとりであり、プリンストン大学の教授ということからも東海岸アカデミズムの大御所というところだろうか。ケージとほぼ同世代の作曲家である。電子(シンセサイザー)音楽にそのトータルセリーを使っての作品とあるが、その所為かどうかは分からないがノイズの存在的郷愁には遠い作品となっている。

さて最後に2曲目17分の作品。ベルギーを代表する作曲家アンリプスールHENRI POUSSEUR (1929)の『TROIS VISAGES DE LIEGE』(1961)。Liege市の委嘱によるニコラスシェーファーの野外抽象映像作品への付帯音楽として作曲されたもの。俊秀であり学業優れて終了の後も同世代の三羽烏とも並び称されるほどにまでその才長けた作品を発表し続けている。シュトックハウゼンの『少年の歌』の瑞々しさ溢れる初期電子音楽の傑作に肉薄する素晴らしい作品となっている。パートが3つに別れており、最初にシンプルに提示されたものが徐々に複層され、重層厚みを増すとともに速度めくるめき、素晴らしく瑞々しい、緊密な美をたたえた電子ノイズ作品のこのサウンドには存在的郷愁の不思議の音連れがある。泣かせる作品である。