yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

ジャズ10月革命以後、アメリカフリージャズ出色の歴史的一枚 『NOMMO』。

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1967年エール大学でのコンサート録音のもの。それも二枚で出されたうちのVOL2ということである。VOL1のほうはたぶん絶版かの理由で入手困難だったのだろう。ドン・ピューレンDON PULLENのピアノとミルフォード・グレイヴスMILFORD GRAVESのドラムによるデュオ・インタープレー『NOMMO』。
このように彼らは商業界となじまず先のようなコンサート活動が主であったらしい由。そのせいもあってか音盤への商業的記録はきはめて少ないということである。ネットで覗いても発売されている音盤は極めて少ない。フリージャズそれ自体鑑賞する人、ファンが少ないこと思えば嘆くほどのことではないのかもしれないが、それにしても同時期以降、ヨーロッパでのフリージャズの一定の盛り上がり、動向の姿を思えばアメリカでのフリージャズの貧弱なありようは音楽の歴史土壌の違いがそうさせていたとやはり短絡してみたくなる。
ちなみに私にはコルトレーンアルバートアイラーはついぞ人が喧伝するほどには面白くもまた興味を引くものでもなかった。むしろ好みとすればエリック・ドルフィーのほうがまだしもであった。またオーネットコールマンのニュージャズも折衷としか私には思えず早々と離れてしまった。
さてところで、こと現代音楽での革新、牽引はトータルセリーの動きに見るように当然のごとくヨーロッパであった。発祥がそうであってみれば、なんていうこともない当たり前の結論ではあるが。しかし周縁でありまた音楽後進国の新大陸アメリカにジョン・ケージが登場し音楽史に大きな画期をもたらしたことは、翻って現代音楽のみならず、ポップス・ロック、ジャズにも大きな革新のトリガーとなったことだろう。
往々にして外部から異端、革新の風は吹き寄せ来るものらしい(岡目八目という言葉もある)。もちろん内部であれば異端ではなく、内部に容れられず排除されるからこその外部・異端ではあるが。フォーム・制度などの価値崩壊に拍車を掛けた不確定、偶然性のコンセプトは、ダダ的アナーキズム、ランダムネスの加速に複雑性の知的領野を切り開くことともなった。複雑性、散逸に構造を見る、<知>がもはや解らないことを前提としてしかありえない了解地平に現存在することとなった。そうしたことの芸術的魁の表現が、こと音楽ではフリーフォーム、ノイズの音楽的存在表明、テクネーへと人間性を解消埋めてしまうまでの散逸としての電子音楽の認知であり、一般的にはヴァーチャル時空世界への人間感性の散逸である。
60年代後半以降フリーフォームのインプロヴィゼーションジャズ、現代音楽でのコレクティヴな即興演奏がウネリとなった背景にはこのような一連の流れにその因を置くだろう。アメリカでのジャズ10月革命といわれるムーブメント

http://www.koinumamusic.com/concert/making/interview2004/k_5.html

も確かにそうした動きとは無縁でもなく一定の動きをみせた出来事ではあった。だがそれはアメリカのジャズという狭い枠内での革新としか私には見えなかった。それに比しヨーロッパのジャズの革新は現代音楽の動きを引き込んでの徹底性があった。解体への意志は強烈なものであった。
そうした達成がFMPでありINCUSでありICPであり、MEVであり、AMMであり、(小杉武久のタージマハール旅行団であり)、ヌーボ・コンソナンツアであり、ヴィンコ・グロボカールであり、カルロス・ロケ・アルシーナなどであった。しかしこのアルバム『NOMMO』に聴けるドン・ピューレンのピアノとミルフォード・グレイヴスのドラムのインタープレイは、そうした当時のアメリカフリージャズの吹っ切れなさの中にあっては出色のものであった。というのもドン・ピューレンのピアノが現代音楽に近いセンスで猛烈に弾きまくっている面白さがわたしを納得させたのだろう。
たぶん彼らのジャズはヨーロッパ、日本で受け入れられこそすれ、アメリカでは革新のムーヴメントになるには至らなかったのだろう。現代音楽領域でもケージの革新のコンセプトはヨーロッパでこそ衝撃であったに過ぎない。棲み分けというか、いたってアメリカは保守的勢力も根強いらしく、アヴァンギャルドも本国アメリカでは飯が食えずヨーロッパを活動の拠点としているのは今もってそのようであるらしい。ともかくこの『NOMMO』は聴くに値するアメリカフリージャズの数少ないうちの歴史的一枚といえよう。


複雑性、散逸構造――
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1066.html