yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

おのれを虚しくするまで激奏するペーター・ブロッツマンの 『MACHINE GUN』

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         http://www.youtube.com/watch?v=mvFJp1WTVFU&feature=related 音源はこちら
         http://jp.youtube.com/watch?v=HWiO5SFoh8g 音源はこちら

つい最近からこのブログを始め、色々とネットページを覗くにつれこのペーター・ブロッツマンPETER BROTZMANの『MACHINE GUN』が名盤と紹介されているのを幾度となく目にした。もちろんそうした評価を否定するつもりは毛頭ない。ただ私に衝撃的な体験をもたらしたアルバムがこれではなく、このブログの始めの頃に取り上げた彼の『NIPPLES』であり、『THE TOPOGRAPHY OF THE LUNGS』であっただけの違いに過ぎないのだけれども。とりわけ先のブロッツマンが1969年に出した『NIPPLES』が、個人的にはヨーロッパフリージャズへののめり込みのトリガーとなったアルバムゆえか、私には先ず一等最初に指折られる名盤であった。フリーから離れることとなった、このアルバムに名を連ねているヴィレム・ブロイカーが誰のことをさしているのかはわからないが、フリー・ミュージック・プロダクション《FMP》に参集するミュージシャンにはスコアーが満足に読める人間が少なかったとコメントしている。しかし音楽活動の持続性、継続性の力を前にしては、そうしたことはなんら問題にもならないと私には思える。すべてを凌駕するエモーショナルな《スサビ=遊び》が芸術活動の原基であるとするならば、スコアーが読める、読めないなどは十分条件以上のものではないだろう。おのれをミュージシャンとして在らしめ続けるエモーショナルな投企、そこにしか何事かをうみ出す源泉はなかろう。こと文学、絵画などではそうしたことの了解が少なからずあっても音楽では先のようなことがしばしば言われる。俳句、短歌など市井には学ぶということ以前の優れた言語感性の持ち主が多くいることは先刻承知のことだろう。グラフィックスコアーの出現は何を意味するのだろう。かつて聴いたことのないような音色の切り開かれる機会が、スコアーが読める世界の外からやってくるのも歴史の示すところであろう。楽譜から成り立っていそうもない民族音楽から数々の革新のアイデアが導き出されているのを見ても十分説得的であるだろう。まさに民族音楽の成立ちこそがエモーションの歴史的積層の謂いではないか。たぶんフリージャズの醍醐味はこのような原基に触れる機会=チャンスの音連れの期待にあるのだろう。おのれを<空=虚>しうするまでのすさまじい情動のうねりに快哉すること間違いない、1968年ヨーロッパ・ドイツフリージャズの歴史的成果の優れた一枚であることに間違いないであろう。ちなみにこのオクテットのメンバーにはハン・ベニンク、スヴェン・ヨハンソンの両ドラム、ペーター・ブロッツマン、ヴィレム・ブロイカー、エヴァン・パーカーのサックス、フレッド・ヴァン・ホーヴのピアノ、ペーター・コヴァルド、ブッシ・ニーベルガルのベースとなっており強烈極まりない音圧に圧倒されるのも頷けるメンバーではある。