yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

電子機器にエモーション焚き付けられるマックス・ニーハウスのパーカッション

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現代音楽作品としての、純然たるアコースティックなソロ・パーカッション作品で印象に残る作品というのを思い出そうとしても、私の音楽への好みがそう臆断させているのかもしれないが、すぐに出てこない。フリージャズでは面白く聴ける作品に出会うことがしばしばであっても、こと現代音楽ではほとんどないといってもいいくらいである。どうしてだろう。
あの所狭しと置かれたさまざまな打楽器を脈絡もなく(とセンスに欠けるのか、私には思える)音がはじき出されても、余韻を持って迫るとか、音が煌めき立つとか、空間に厳しく張り詰め、また切り裂くとか、消え入るような寂滅感とか、微かな音と共に沈黙がせり出してくるとか、こうした音なるものの諸相をみごとにまで味あわせてくれるような作品にあまり出会った事がないように思う。いろいろな奏法があるとはいえ(どのようにであれ音が鳴りさえすればいい訳だが)基本的には打ち叩くというのが字義通りパーカッションのありようだとすれば、それとして聞けるリズムの判然としない打楽音の羅列を提示されても、まったく死に体のみすぼらしい音の姿としか受け取れない。
「響きを聴くといったてなあ、何ナノこれ」と言いたくもなる。もちろん擦ろうがなにしようが似たような印象しかもたらさないことに変わりはない。いくらかでもリズムを刻む兆しが見えるとほっとする、というのが正直おおかたのところだろう。量販店の隆盛に押されその存在意義をなくしたような、まるで百貨店での家庭電化製品売り場のような場違いで、とってつけたような印象が無くはない。
フリービートなフリーインプロヴィゼーションであってもジャズのパーカッションソロなどは面白く聴けるものが多くあるのに、現代音楽となるとどうしてこうも貧弱なんだろう。要するに私がよく言う≪遊び≫≪荒ぶ≫≪スサビ≫の情動、エモーショナルにかぶいてみせる解体への投企、こうしたことの欠如が結果する、嘆かわしいまでの想像力の貧困がたぶん起因しているのだろうと臆断している。
幼児が自らアクションし音と共に遊ぶのは先ず一等最初に叩く事と、口を使っての吹くことであろう。このように通時歴史的にも一番起源が古いといわれている打楽器からスサビの情動、どのようであれ一種のリズムの情動が後退すれば、統べる中芯の欠如に、ただ死に体の音、響きがあるだけの希薄なサウンドに堕してしまうのも無理は無いだろう。さまざまな音の背後にはそれとして聴き取る意味世界があるわけで、そうしたものを捨て去った抽象に、生きた響きが音連れる道理は無かろうとも思えるのだが。
とはいえ、この採り上げたアメリカのパーカッショニストであるマックス・ニーハウスMAX NEUHAUS(1939)の『ELECTORONICS & PERCUSSION』というアルバムが、先に述べたパーカッションソロのありがちなつまらなさを感じさせないのは、ひとえに電子機器を介在することによる新しい打楽器音のマチエールの提示ということにあるのだろう。電子機器がもたらす音連れが奏者マックス・ニーハウスを一層エモーショナルにする。
とりわけ音を増幅させて面白いパフォ-マンスをしているのがアールブラウンの『FOUR SYSTEMS―FOR FOUR AMPLIFIED CYMBALS』、シルヴァーノブソッティの『COEUR POUR BATTEUR―POSITIVE YES』、そしてジョンケージの『FONTANA MIX―FEED』の演奏である。シンバルの増幅された、まるで製鉄圧延工場内での金属音のような轟音の持続する響き溢れる世界がエキセントリックに面白く聴かすブラウン。
演奏中の何気なく出された奏者の声が増幅され、そうした声とアンプリファイドされた楽器のからむ生々しくエロチシズムに彩られた音色の世界は、やはりブソッティのものであり興味深く聴ける。
最後にいつもながらやはりジョンケージは出色である。もっともこのフォンタナミックスは、音符の姿すら見えないグラフィックススコアーによるパフォーマンスだから、音の世界はまったくの不確定である。このニーハウスの場合≪FEED≫と注しされているように、楽器の前に置かれたコンタクトマイクから拾い上げられた音が、フィードバックチャンネルループを使ってミクスチュアされ、それらをスピーカーに流されパフォーマンスされた作品ということだ。およそパーカッションとはかけ離れたサウンドであるけれども、ここに聴かれるハウリングノイズドローンの音色世界は新鮮ですらある。