yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

透き通った濁りのない世界に脱落するジョン・ケージのヴァイオリンソロ作品

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現代音楽ファンを自認し、このブログで70年代のレコード回顧モノローグをしている者とてクラシック曲を聴かないわけではなく、誰しもがおおかた上げるであろうバッハ、モーツアルト、ベートーベンなどは好きでよく聴いている。学者、評論家なら兎も角、評価定まっているこのような音楽史の奇跡とも言われる天才たちを論じたところで詮無いことだと、一人合点して取り上げないだけで、ひたすら聴くだけにしている。
もっとも汲めども尽きぬ源泉であるのは確かだけれども。『歌は世につれ、世は歌につれ』と言われるように、その時々、楽しく幸せに満ちた日々、また哀しく切なく涙する思いの去来等が人にありえないことはなく、そうしたさまざまな音楽との出会いの事どもはその人にっとっては大事なことで、評価定まっているから無意味と軽んじているわけではない。バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ、それにイザーイの無伴奏ヴァイオリンソナタなどは涙線もので、幾度となく聴くマイフェーバリット作品ではある。
さてこのポール・ズーコフスキーのヴァイオリンと高橋悠治のピアノとで1975年に出されたメイドインジャパンアルバム『A PROSPECT OF CONTEMPORARY VIOLIN MUSIC』(新しいヴァイオリンの世界)。もちろんここにジョン・ケージの作品が収録されていることで購入したのであろう。その期待にこたえる、心あらわれるシンプルな美しさに満足したことだろう。ケージの初期作品に共通するこうした作風はどこから来たのだろう。
『NOCTURN』(1947)、『MELODIES』(1950)、この収録2作品の時点ではまだケージを革新の人へと音楽史にせり上げる画期となる<禅>思想、とりわけ鈴木大拙のそれとの出会いは無かったはずである。先のブログに採り上げた『INDETERMINACY』ではニューヨークのアーティストクラブで1949年に<無=nothing>に関してレクチャーをおこなっていたとある。
ともあれその時期に思想的激変があったことが窺がえる。ケージの分からなさをあげつらう人々にあっても、その時期の作品に簡素な美に満ちた不思議な魅力を感じ好印象を語る人が多い。かの『弦楽四重奏』に聴く、ノン・ヴィブラートの弦がかもす、まるで余剰をこそぎ落とした、中世の簡素とでも言うような不思議な落ち着き。現代の人間に必然の如く纏わり付く余剰を修業僧の如く透体脱落してみせ、放下する、まさに透き通った濁りのない世界の提示とでも言えるだろうか。
存在性ではなく存在の開けである。このケージの2作品について作曲家諸井誠は賛仰し解説する。≪ケージの2曲にきかれるノン・ヴィブラートの素朴単純様式は、ヴァイオリンのあり方の盲点をみごとについたものである。作品7の<4つの小品>におけるヴェーベルンとはまた違った意味での、<ピアニッシモエスプレッシヴォ>スタイルの佳作として、これらは今尚私たちに新鮮な魅力を与えてくれる。
これは、パガニーニが代表するロマン派の名人芸とも、チャイコフスキーの濃厚な情緒表現とも、メンデルスゾーンのコケットリーとも、更にはバルトークのアグレッシーヴな構成主義とも、シェーンベルクの奇抜な未来主義的表現主義とも関係のない、およそ<西欧風>ではない、素朴単純な抒情的表現の形をとった、内省的で、モノトーンな、プリミティヴィズムの世界なのである。≫正しくこれに尽きる評の世界といえよう。

              http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0988.html