yuki-midorinomoriの日記

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『際限なく新しい音への投企』 へとおもむいた自在境のデレクベイリー

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興味をそそるデレク・ベイリーとハン・ベニンクのインタープレイ、INCUS9とナンバーされたアルバム。やはり期待通りのものであった。遊ぶ=荒ぶ(スサブ)ベニンクのパーカッションと融通無碍の自在境に、すべての関係性から解き放たれた時間を音へと量子化し空無へと雪崩れ落ちてゆくデレクベイリーの壮絶な拒絶と、すべてを受け入れる慈愛のノンイディオマティックギター。両者のスサビはなまなかではない。だからこそというべきか堪らないのである。以下工作舎刊、オブジェマガジン『遊』<1008>号(1979)のデレクベイリーへのインタビュー記事からの抜粋である。

≪兎も角、速度と音、この二つの関係が大切なことは確かだ。≫

≪朝起きて何かを作曲し、それを確かに演奏させる、私には考えられないことだね。一般にはその方が.立派なことで権威があるかのように考えられているようだけれども。フィジカルな演奏以外には考えられない。≫

――楽譜という抽象的記号を通して演奏するということに関してはどうですか。

≪それは大きなテーマだが、私にはほとんど無意味なことだ。ますます意味がなくなってきた。長年演奏してくるにつけて。.職業的に演奏していた頃は、いやでも楽譜を読まなければならなかった。それでないと雇ってもらえなかったしね。読みもし、書きもした。だが、もう何年も楽譜というものを使っていない。音楽を紙に記す、音楽的情報を紙を介して伝えることに関して、私は何の共感も感じない。≫

インプロヴィゼーションと作曲とのひとつの違いは、時間的要素だろう。ひとつの音という容器に込める時間。作曲するなかで、音本来が持っている時間が希釈されてしまう。何も知らないということの雲から放射されてくる音ほど強力なものはない。日本式にいうと「無明の明」ということかな。増大する知識に抗してこの無明の明の境地に至るにはどうしたらいいか。演奏にまつわるさまざまな知識やノウハウを、どうやって解消していくか。インプロヴィゼーションを続けるには、この無明の域を持続させていくことが一番肝心だ。ノウハウを蓄積するのとはちょうど逆のことになる。無明を持続するノウハウを知りたい、とすら思うね。(笑)≫

インプロヴィゼーションを続けるのに、二つの問題を超越しなければならないと思う。ひとつはキャリア志向。そして自分のやったことで、みなに満足してもらおうとする、関係性への幻想。第一の問題の解決は言ってみれば簡単だ。誰も雇ってくれないような奏者になればいい。≫

≪私の場合を言えば、ともかく演奏しているのが一番好きだから、演奏することの意味だとか、その結果などというものは考えたくもない。≫

≪自分の演奏に対して、どんな意見を言われても完全に無視すること。客が一人も入っていなくとも、どんなジャーナリストが来ていても、いなくても、それら一切のことを気に留めない。.アートを問題にしているというのに、あらゆる意見にいちいち耳を傾けるというのは、二十世紀的風潮に思えてならない。ポピュラリティーというのが何らかの価値を意味するようになっているようだ。≫

≪人間が始めて音楽というものを生み出したとき、それはフリーインプロヴィゼーションであったに違いない。またあらゆる時代にも、フリーインプロヴィゼーションはあった。たとえばどんな短い、小さな、人知れずおこなわれた行為であったにせよだ。儀式以前の初期の音楽、あるいは子供が鳴らす音……楽器やものをもったあらゆる人が、どこかの時点でフリーインプロヴィゼーションをやっている。≫

かくまでの拒絶と矜持、融通無碍の自在境のうちに、『際限なく新しい音への投企』へとおもむいたデレクベイリー。2005年12月24日深夜ロンドンの自宅で死去。MND(運動ニューロン疾患)による衰弱死。享年75歳。


http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1146.html
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%EC%A5%AF%A1%A6%A5%D9%A5%A4%A5%EA%A1%BC?kid=98510

http://www.jazztokyo.com/derek-bailey/yokoi1.html