yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

凄絶なレペティションに忘却没我へ登りつめるエヴァン・パーカーのサックスソロ

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Evan Parker - Solo Soprano Saxophone (1975)

              
            
まるで高音部での、循環奏法を駆使してのエヴァン・パーカーのソプラノサックスインプロヴィゼーションには、わが国の篠笛のごとく存在の孤愁の謡いとでも表したくなる幽そけき霊験ささえをも感じさせる。パフォーマンスの間のすべてにわたって持続する集中と厳しさは絶するものがある。そこにはメロディーはない、記憶の解消滅却、忘却へとパーカーはサックス携え息絶えなんとまっしぐらである。

ケージ――年寄りは物忘れがひどくなりますが、それはなかなかいいものです。たとえば私はキノコの研究をしていますが、だんだんキノコの名前を忘れ始めている。人の名前も憶えにくい。アラン・コープランドという有名な作曲家は一時間前のことを全部忘れる。

松岡―――耄碌はニルヴァーナなり、ということですよ。

ケージ――私も同感だ。デュシャンも「忘れられるようになれ」といっていた。私の友人のフランスの哲学者が「ウーブリー」(忘却)を音楽と結びつけた本を送ってくれました。

松岡―――なんという人ですか。

ケージ――ダニエル・シャルンです。ちょっと待ってください、見せてあげます。……どうですか、「音楽は忘れることだ」と書いてあるでしょう。これは重要な原理です。音楽は関係性の問題ですが、それはレペティション(反復)であることが多いからです。私の先生はアーノルド・シェンベルクで、彼は「音楽はレペティションとヴァリエーションから成る。しかもヴァリエーションはレペティションであって、あるものは変わるがあるものは変わらない」と言った。と言うことは音楽はレペティション以外のなにものでもないことになる。このレペティションの源泉が、実に「間」であり「沈黙」なのです。

                         松岡正剛 『間と世界劇場』(春秋社)より

忘却のかなたに沈黙とともにやってくる音のマレビト、そこに人は崇高を聴き、神業というべき厳かさに畏敬をさえもつ。すべてをそぎ落とした<虚=ウツ>の果てにやってくるものとは「世界は、私のところでぼける」(ヴィトゲンシュタイン)<無>の気配にほかならない。おしよせては引いてゆく波の無限の反復と変容に人間歴史の在りようをアナロジーすれば寄る辺なさと忘却することこそがそのよってたつ本質であるのかもしれない。高邁な思索にふけり身を横たえている稲垣足穂は「あほらしくてたっていられない」と宣ったそうである。さてこのソロアルバム『AEROBATICS』(1975, Incus19)に聴くエヴァン・パーカーの技巧を駆使しての凄絶なソロパフォーマンスは、タイトルどうり曲芸の極みである。情動の人ペーター・ブロッツマンのサックスソロは物理的な楽器の持つ限界への苛立ちか、自らの音楽的な苛立ちか、激奏するサックスの咆哮が極まりゆきて、ブロッツマンの生々しい雄叫びの伴うソロへと<スサブ=荒ぶ>興趣で聴かせる。がエヴァン・パーカーは内へと知的センスに極まる。延々と凄まじく続けられる循環奏法のうちに没我の世界へとのぼりつめるパーカーのサックスに名状しがたい感動をおぼえないものはまずいまい。生半可に言われたりもする、生きた響きだの、余韻だの、音そのものを聴くだのの当たり前の想念はエヴァン・パーカーの凄みを持って放たれるソプラノサックスインプロヴィゼーションの重畳のまえに打ち砕かれることだろう。



Incus19 Saxophone solos

Evan Parker
Evan Parker, solo soprano saxophone.
Aerobatics 1 (16.20), Aerobatics 4 (03.48), Aerobatics 2 (06.30), Aerobatics 3 (14.25). Aerobatics 1-3 were recorded by Martin Davidson at the Unity Theatre London on 17 June 1975, at a Musician's Cooperative concert.




Evan Parker - improvisation #1 (excerpt) (1985/04/22)


Tony Hymas / Evan Parker [soprano sax]