yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

抽象論理の、クセナキスと化した土俗世界の定立 『アナクトリア』 (1969)

イメージ 1

Xenakis: "Anaktoria" 1/2

            

どうしてこのような精神性の満ちた音たちのさまざまな有りようの背後に、数学の抽象的論理の世界が在るのだと信じられるだろうか。もうここには、それらはまったき後景にしりぞき、クセナキス個人の語彙として、手練として、世界として存在解消してしまっているのではないだろうか。この『アナクトリア』(1969)が作曲された69年という年は多くの作品が集中した年で、バレー曲≪クラーネルグ≫、≪ペルセファサ≫、≪シナフェ≫、≪ヒビキ・ハナ・マ≫が作曲されている。すでにこの年の前までに理論的な基礎付け、展開試行、実験などがあらかた行なわれ、≪1969年にはクセナキスは、これらの音響の操作を計算を通さずに行なえるほどの自在さを獲得したと感じたにちがいない≫。そうなのだ。もうすでに作曲語法は抽象論理を離れ感性として、つまりはクセナキスと化したのだともいえよう。それゆえに≪この年を境に、作品の数は多くなり、あらゆる分野にわたって、精密な音響構造の記譜を短時間のうちに完成させる集中した活動が見られることになる≫(高橋悠治)のだ。クセナキスが探究開発した音響の、見事なまでのめくるめき放射が光速(抽象論理)と音速の軋みとなって圧倒するとともに、クセナキスの、混沌無秩序に土俗を投げ入れた荒ぶる精神の現れに、魂揺さぶられる音界へと投げ入れられることとなる。終曲部での引っかき、擦り、凄まじく軋る、異様なまでの弦と管のうち出す世界は土俗以外のなにものでもない。またB面『モルシマ・アモルシマ』(1956-62)≪神によって決められるもの=運命から来るもの(モルシマ)、運命によらないもの=偶然に生起するもの(アモルシマ)≫。この曲こそはまさしくコンピュータのストカスティック(確率)プログラムによる計算のもとに作られたものである。しかしこの曲にも≪作曲家はこのプログラムに、楽器の数と音域や、各部分の平均の長さやそこにふくまれる音数をデータとして挿入し、ちがった結果を得る。多くの計算結果のなかから適当なものを選択し、演奏家が読めるように伝統的記譜法に書きなおすのは、ひとつの音楽構造(プログラム)から形式(個々の作品)を抽出することであり、作曲家の個性はそこにあらわれるだろう。≫(高橋悠治)データがデータとして意味をもつのは、<既にもはや>バクとした予見、予想のうちにデータが絡めとられているが故でしかない。単なる数字の羅列が意味をもちはじめるには何らかの先見・投企があってこそだろう。つまりはそこに作曲家クセナキスの世界が立ち現れることとなる。廉価盤であるが演奏はパリ八重奏団による好演で、とりわけピアノが際立って聴こえるので誰かとメンバーをみると、ジャクリーヌ・メファノであった。



以下は前回に引き続いての『遊』インタビュー記事からの抜粋

クセナキス――いずれにせよ、何であれ人間がやることを別の人間が認識できないはずはない、と私は信じている。その前提の上にたってのことだが、他方では、本当の伝達というものはないんじゃないかとも思う。これは二つのことからきている。一つには、まず、自分自身のことすらわからないということ。人間は習慣的に読み、書き、感じ、考え、見聞きしているわけだが、本当は自分のことすらわかっていないことを、知っている。ましてや、他人を知ることは非常に困難で、時間もかかるし、方法も模索しなければならない。自分の周りに空白を持っているようなもので、それでも、認識しようと努力はしているわけだ。私なら私が何かをやる場合、それは私の奥深いところから来ているに違いないが、必ずしも何かを自覚しているわけではない。しかも、そのような状態なり、体勢になるには、認識の・・・何というのか・・・・尻の穴を開く必要がある。認識はふだんはシリの穴のように閉じている。(笑)・・・・・この状態は、さまざまなテクニックでもたらすことができる。祈りもその一つだった。儀式。いわゆる集中思考――というより、頭の中を空っぽにすること。ないしは、作業そのものを通じて頭を全開する。

☆――――その状態では、自我の意識はなくなる?イアニス・クセナキスというアイデンティティも?

クセナキス――そう、何か深いところから来る力に動かされてやっている。それがどこから来るものかといえば、結局は、自分自身の身体と精神の状態が作り出したものだ。よし、それに従おう、協力しよう、という気が自分の中にあるから、それにつき動かされて何かをしてしまう。これを意識的にコントロールすることはほとんどできない。何かを達成するというのは、だいたい、こういうふうにして成されるんじゃないだろうか。どうしても負けられない戦いに立ち向かうときもそうだろう。すべてを見通してから始めるわけにはいかない。というよりも、すべてを見きわめようという努力を重ねているうちに、気がついたらもうやり始めていた、ということになるのかな?だから、この努力を推進する能力や習練ができていないと、なかなかこの状態にはなれない。

☆――――無限性を信じることは?

クセナキス――何事も信じるだなんて、私にはできない。無限という言葉、観念、それ自体、有限だ。有限な無限だ。感覚として捉えることはできない。しかも、感覚となると、それはそうだ、というしかない。信じるウンヌンじゃない。

☆ ――――テクノロジーについてうかがいたい。アーティストの中には、これに恐れを抱いている人がありますが。

クセナキス――私にとっては簡単な問題だ。地球が24時間で一回自転するのも、地球が太陽の熱を受け、季節があるのも、テクノロジーだ。こんなに有り難い事はない。拒むなんてもってのほかだ。(笑)

☆ ――――近代のテクノロジーもその延長だと?

クセナキス――そこに人間が関わって生んだものだ。もちろん盲目的に作り出してしまったものもある。ただ、それにしても、宇宙、自然の一部である人間の頭が生み出したものであると思えば、良いも悪いもない。それをどう使っているかだけを見て、テクノロジーそのものを消すことはできない。ひとつには、多くのアーティストが、数学や科学といった、こんなに面白い領域を苦手として、回避するばかりで、それを知ろうとしないから、そんなことを言うようになる。無知ゆえの恐れから来る発言であり、自由というより、むしろ隷属化された考え方だ。

オブジェマガジン『遊』<1008>(1979)より



XENAKIS 《Morsima-Amorsima》