yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

アルバムポートレイトを見入って凄みを聴く、シェーンベルクの『木管五重奏曲・作品26』(1923-24)

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さてこうした音楽、わが日本という国ではどのような人たちが聴くのだろうか。たしかにクラシック音楽である。親しみやすいメロディや、響きの美しさの魅力とかそういった類のものではなさそうな、いわば堅固な構築性とはいえきわめて地味な印象を一般的とするだろうこういった作品を聴くのはどういった人たちなのだろう。ディレッタント(ものずき)?。シェーンベルクドビュッシー。私たちの感性はどちらを選択するだろうか。一般的には多分、ドビュッシーであり、モネなどのいわゆる印象主義者であることだろう。もちろん私もどちらかといえば好みとしてはそうである。単純にいってしまえば構造・論理と感性ということだろう。あまりにも当たり前すぎる推断であるけれど。<間>とか<余白>とか<気>とか<余情><余韻>などのことばが示すようにおおむね感性を旨とすることばをへめぐっての印象評断となることだろう。これらのことば、概念以外でもまた同様そうであることだろう。日本人には原理原則が無い、希薄であるとはよく言われることだ。悪く言えば事なかれ、事大主義ということだろうが、たとえそうであっても論理の正当さに人は魅力を感じているのだろうか。直観・感性の魅力に欠ける論理はおもしろくも無いことだ。感性の<快>。これを手放す事は出来ないだろう。おおむね私たちはここをめぐって判断の分水嶺とすることだろう。虫の音に何かしらを感じる日本人の感性を説くときに、よく引き合いに出される、右脳・左脳人間の話など何か眉唾と思わないでもないけれど、たしかに論理の人、感性の人は厳然とある。ただ感性に裏付けられた論理という言葉はあっても、論理に裏付けられた感性とはあまり聞かない。論理が抽象だから価値があるとの近代思惟の言い草だろう。日本語には主語が無い、無くても済むということが、よく非論理的、無原則的国民を存在せしめている土壌にあるとの説明がなされるが、逆にそうであるからこその融通無碍であり、また松岡正剛が指摘したように、<おもかげ>と<うつろいに>に文化特質をつくり上げ、トリビアルにこだわる<多様で一途>な感性文化の豊穣をもたらした。極める<道>のなんと多いことか。牽強かもしれないけれど、武満徹の音楽もそうした感性文化の美質のひとつといえようか。ともあれシェーンベルクの『木管五重奏曲・作品26』(1923-24)に聴くヨーロッパ近代よりの堅固な音世界の、革新とはいえ正統継承の見事なまでの成果には、羨ましさと、しんどさを感じることではある。このアルバムのいかめしいシェーンベルクポートレートにいいしれぬ凄みを感じない人はいまい。このポートレートだけでも手にとり、じっと見入り人と文化に思いをいたす価値はあるというものである。