yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

アロイス・アルフォンス・コンタルスキー兄弟(1931,32-)によるクロード・ドビュッシーの『4手のためのピアノ曲集』

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Claude Debussy - En Bateau

            

今、小中学校に音楽室なるものがあるのかどうかはしらないが、音楽史を飾る大作曲家の肖像画が掛けられていたのを思い出す。バッハ、ハイドンモーツアルト、ベートーベン、シューベルトといったところだろうか。なかでもいちばん特徴的で人気があったのは、たぶん、致命的なハンディーで苦悩に満ち、髪振り乱したベートーベンだったのではないだろうか。
記憶にはないけれど、それら西洋の偉人の面々のほか滝廉太郎はどうだったのだろうか。『荒城の月』『花』などよく合唱で歌わされたものであった。ネットを覗いていて童謡・唱歌の『お正月』、『鳩ぽっぽ』、『雪やこんこん』なども滝廉太郎の作品とあらためって知った。
さて印象強い「ジャジャジャジャーン」のベートーベンではあった。が、少なくとも私たちの世代にあっては音楽教材はそこまでであった。今回採り上げるドビュッシーなどは後年その存在を知ることになる内の一人であった。
クロード・アシル・ドビュッシーClaude Achille Debussy(1862-1918)は、いうまでもなくフランス印象派作曲家と括られている作曲家であり、その音楽はリズムと音色色彩に世紀末にあって革新をもたらしたといわれている。
≪1851年のロンドン万国博覧会(第1回)やエッフェル塔が建設された1889年の パリ万国博覧会(第4回)≫(WIKIPEDIA)にみるように、この時代、より一段のグローバリーゼーションの拡大とデパート出現に象徴される消費文化の加速爛熟の世紀末でもあった。
世界最初のデパートといわれているボン・マルシェ百貨店もフランス・パリでのそうした時代の消費産業社会の興隆を象徴するもののひとつであった。≪もともとはパリの流行品店のひとつだったが、1852年にアリスティッド・ブシコー(Aristide Boucicaut)によって買い取られ、夫人マルグリット(Marguerite)とともに、バーゲンセールなどの百貨店としてのシステムを確立、発展していった。1869年、店舗を改装するもブシコーは気に入らず、新たに建築家L. A. ボワローとギュスターヴ・エッフェルを雇い入れ、パリのオペラ座をモデルに再改装を行い、1887年に完成した。ボン・マルシェ百貨店における派手なショーウィンドウと大安売りの季節物で客を呼び込む手法は、パリ万国博覧会を参考にしたと言われている。巨大で立派な店舗に毎日客が押し寄せるさまを、作家エミール・ゾラは百貨店をモデルにした小説の中で「消費信者のための消費の大伽藍」(« Une cathédrale de commerce pour un peuple de client »)と呼んだ。≫(WIKIPEDIA)。
またキャバレーなど、夜の退廃文化の爛熟もたらす≪都市化が進むのは19世紀半ばである。ナポレオン3世の指示でオスマン男爵によるパリ大改造が行われ、多くの市民が中心部の家を失い、パリ外縁部のフォーブール(近郊)へ移転を余儀なくされた。その移転先の一つがモンマルトルであった。パリの税金や規制が適用されず、また長年丘の上の修道女たちがワインを作っていたことは、モンマルトルが飲み屋街に変わる原因となった。19世紀末から20世紀初頭、モンマルトルはデカダンな歓楽街となり、ムーラン・ルージュやル・シャ・ノワールといったキャバレーが軒を連ね、有名な歌手やパフォーマーらが舞台に立った。≫(WIKIPEDIA
エリック・サティ(1866-1925)はこうした時代に生き、背景として登場したひとりでもあった。当然時代がかぶるクロード・ドビュッシーも、そして影響を受けたとされる多くの印象派の画家たち、芸術家もそのたぎる活動にそうした背景を持って登場した。
またドビュッシーは詩人マラルメが主宰していた「火曜会」(ルドンも常連の一人)にも出入りし、クローデルリラダンヴェルレーヌヴァレリー、ジッドなど錚々たる歴史に残る人物とも少なからずの交流があったといわれている。
さてこのような万国博覧会に象徴される国際化の進展がもたらした異境の文化の流入は、ジャポニスム印象派との関係とよく言われるように、ドビュッシーにもまたその影響は大きかった。≪仕事部屋に「海」のスコアの表紙にも使われた北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」などを飾り、異国への憧れを抱いた≫ともいわれている。≪パリの万国博覧会で、東洋の簡素幽玄的な表現に触れ、ヨーロッパ的機能和声や管弦楽法の過重、導旋律の不合理を悟り、ワーグナーを抹殺し、新しい音楽美を創造していった。彼の音楽にしばしば日本の旋律の断片がのぞいたり、タイ国の音階や、ガムラン音楽の影響が現れたりするのはそのためだ。≫(ネット記事より引用)。
もちろんそうしたなか≪中世の旋法や五音音階、全音音階を駆使し、新しい響き≫の革新の果敢の栄は彼のものだろう。それらは新しい響き音色の革新の画期であった。
はや確固とした古典の地位確立したクロード・ドビュッシー。糟糠の妻ならぬ下積み生活を物心両面支えたつれあいをピストル自殺に追い込み、正規の一度目の妻をも死を免れたもののピストル自殺にまで追い込むエロスの過剰のほとばしりは、その創作活動にどれほどの影をもたらしているのか。なくはないだろうが。
自身の死後、追うようにして世を去った、たった一人の愛娘(愛称、シュウシュ)をのこし1918年の3月、第一次世界大戦ドイツ軍の砲撃を聞きながら静かに息を引きとり生を終えたということである。
このアルバムの若きドビュッシー肖像画≪前髪をおでこまで垂らして少しカールした髪型は、当時の流行というわけではなく、生まれつき骨がこぶのように飛び出した一種の骨腫を隠すため≫とも言われている、その肖像画を見ながらの、いわば絵を見ながらのドビュッシー、彼を聴くというところであった。
現代音楽演奏の名手、アロイス・アルフォンス・コンタルスキー兄弟(1931,32-)による、クロード・ドビュッシーの『4手のためのピアノ曲集』であった。曲目構成は「4手のための・小組曲」「4手のための・6つの古代碑銘」「2台のピアノのための・リンダラヤ」「2台のピアノのための3つの小品・白と黒で」以上の4曲。