yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

「こどもの絵か?」と問われた、30年間自宅の門から外へは出なかった隠者、熊谷守一(1880-1977)。

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       上『ほとけさま』(1950)
            中・上『白猫』(1959)
                 中・下『陽の死んだ日』(1928)
                      下『ヤキバノカエリ』(1948―55)

起きて半畳寝て一畳の、あたりまえの日常を放棄しての凄まじい絵描き人生であった葛飾北斎。それとはいささか趣きが違うとはいえ30年間自宅の門から外へは出なかったという徹底した隠者、熊谷守一Kumagai Morikazu(1880-1977)。来客が増え静穏平静な生活が保てなくなるではないかとの理由で1967年度文化勲章内定を辞退したという。世俗評価にも距離をとった熊谷守一。芸大での親しい同級生には青木繁がおり、≪自らチェロやヴァイオリンを演奏する音楽愛好家で、作曲家の信時潔とは30代のころからの友人≫(WIKIPEDIA)であり、音楽愛好家で信時潔と交流があったとはこの稿のためのネット記事で知った。ところでこの熊谷守一の稿をブログにおこそうとの発端は、ブログつながりのきっかけから円山応挙のことを調べる機会があり、日本経済にて毎日曜特集している≪美の美≫欄のストックを家探ししている間に目にとまったからである。もちろん彼の存在、画業のほどは知ってはいた。が、このたまたまの出会いが大事なのだろう。いい勉強の機会である。したがってこの稿、その≪美の美≫欄の記事をよりどころにしてのものであることを申し添えておきたいとおもう。さてところで、熊谷守一は42歳という晩婚で二男一女をもうけるが、生活のため、食うために絵を描けずか、描かずか、子供を死なして苛むこととなる。1928年の『陽の死んだ日』である。「幼くして死んだあの子のことを考えると、四十年も過ぎた今になっても胸のしめつけられる思いがします」と語る熊谷守一。非力な自己を苛む怒りと悲しみ、わが子への呵責の苦しみと祈り、この絵の何という激しい感情のほとばしりだろう。しかしこのタッチはもう後年には見ることはない。「陽(二歳で亡くすこととなった次男―引用者注)がこの世に残すものが何もないということを思って、陽の死に顔を描き始めましたが、描いているうちに“絵”を描いている自分に気がつき、いやになって止めました」と熊谷守一はこの作品の制作動機を語っている。絵画精神と現実生との相克に<生活のための絵>が描けず、わが子を死にいたらしめた自己呵責。また戦時、紡績工場に徴用されていた長女の死を描いて名作とした『ヤキバノカエリ』(1948-55)は輪郭のみのシンプルのゆえにいっそうの悲しみを感じさせる絵となっている。後年の、輪郭が独特の様式である。実人生は資産家の、一見めぐまれた、しかし疎外感に居所定まらぬ息子から借金を背負う境遇へと急激な変転を生きることとなる。家産傾く前の幼時、離れて暮らした実母の死に「死んだと聞いても、少しもおふくろという気がしないのは妙な具合でした。・・・・死それ自体よりも、私が無感動であることのほうが悲しいのでした」と語ったそうである。たぶん誰しもこうした境遇での親の死とはかくなるものであろう。しかし、正直な胸のうちを語ってはばからぬこうした心性は、なぜ絵を描こうとはしないのかとの口さがない世間には「気がないのに絵を描いても仕方がない」という答えをもってすることともなる。30年間自宅の門から外へは出なかったという徹底した隠者ぶりの熊谷守一、96歳の時の回想に「この正面から外へは、この三十年間出たことはないんです。でも八年ぐらい前一度だけ垣根づたいに勝手口まで散歩したんです。あとにも先にもそれ一度なんです」と語ったそうである。隠者、熊谷守一には庭の草木やらの事物が世界であった。「草木国土、悉皆成仏」としてそこは、三千大世界であったのだろう。共感を持ってそこ小宇宙・庭に事物を<見た>。<仏性>をも見たのだろう。それがあの独特の≪稚拙に見えながら、人を納得させてしまう≫(「美の美」宝玉正彦)抱擁の作品世界をつくり上げたといえるのだろう。「地面に頬杖をつきながら、蟻の歩き方を幾年も見ていてわかったんですが、蟻は左の二番目の足から歩き出すんです」まるで生物学者のような<見る>ことの見事な徹底性ではないか。飛ぶアゲハ蝶の道筋を飽かずたゆまず観察し、その道理を探り当てた生物学者日高敏隆の話を思い出した。もちろん彼だけではない、おしなべて世界に誇れるわが国のサル学に貢献した今西錦司ほかの生物学者の泥臭くあきれるほどの見ることの徹底にこそ発見があるのだということを教えてくれる。真理への道がまるで小学生の夏休み子供自由研究と初発の基本は変わらないことにも驚く。虚心坦懐とはこのことか。1950年に墨書された『ほとけさま』を「おのずから頭が下がるような無心な字で、正に日本の<ほとけさま>はこういう姿をしていると、合点させるものがあった」と白洲正子は評したそうである。なにあろうこの文字に魅かれてこのブログ稿起こすことを思い立ったのであった。それほどのほのぼのとしたやさしさにつつまれた墨書である。隠者、熊谷守一は「気に入らぬことがいっぱいあっても、それに逆らったり戦ったりはせずに、退き退きして生きてきたのです」と語る。だがここには才能ある者の隠者としての矜持、強い意志がありはしないだろうか。退いてのうえでの自己の貫徹である。「やっぱり自分を出すより手はないのです。/なぜなら自分は生まれかわれない限り自分の中に居るのだから」やはりここまで自己を貫徹する強き意志ありてこそ発することのできることばであり、だからこその、人の心をやさしくまるごと捉える画業であり作品なのだろう。昭和天皇熊谷守一の絵を二紀展で見たとき「こどもの絵か?」と聞いたそうである。





『海をわたる蝶』日浦勇(松岡正剛・千夜千冊)
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1145.html