yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

シンプル極まりない簡素な音に瞑想と祈り誘う、中世教会音楽の余情もつアルボ・ペルト(1935-)の『ヨハネ受難曲』(1982)

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Arvo Pärt – Sanctus

            
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情けないことに、私にはことのほか深刻な思想的課題、格闘があったのではないのだろう。およそ凡々たる来し方であったということなのだろう。獄中で聖書とはよく聞く話である。ましてや思想の巨人であってはなおさら尾ひれもつくだろうほどである。吉本隆明の『マチュウ書試論』。其処での<関係の絶対性>なる概念は、当時60年代のマルキシズムに典型な人間疎外論ともども若き観念世界を席巻した。いわゆる社会関係存在としてのヒトにあらゆる結節の場で直面する<転向>問題である。政治と実人生。観念イデオロギー世界と現実世界の人間存在の相克である。とことん突き詰めれば必ずといっていいほど宗教者、聖者の言葉が迫ってくる。あたりまえではあるけれど。絶望、悲しみ、怒り、ねたみ、喜びなどなど、いいも悪いもすべて宗教へと、神話へとことばとなって連綿と受け渡されてきている。関係において生きざるをえない存在本質のしからしめる帰結であり、人の生ある限り永遠である。だからこそ格闘に値するのだろう。来し方振り返るとなんと中途半端、忸怩たるものがある。聖書、経典のはしから端まで読む衝迫に追い込むことあたわぬ軟弱人生。せめてこの中世教会音楽の余情もち、シンプル極まりない簡素な音に瞑想と祈り誘う、優れた宗教曲アルボ・ペルトArvo Part(1935-)の『ヨハネ受難曲』(1982)を聴いて自らの救いを祈りたいものである。しみじみと静謐と祈り、簡素がいいのである。バッハの「マタイ受難曲」を聴くも「ヨハネ受難曲」を聴くも聖書のことばは読みもせで当然のことではあるが私には届かず、情けないことに音楽にのみに感動しているだけである。もちろん同様今回もそうである。情けない限りである。なにはともあれ終結の感動に心ふるえる「アーメン」にアーメンである。わが懐具合にふさわしい廉価で有名なNAXOS盤(2001)のものである。ちなみに、帯にある宣伝文句は「ひとりでも多くの方に聴いていただきたい衝撃の受難曲」とある。まちがいはない。