yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

人間の是非 看破に飽きたり 往来の跡はかすかなり 深夜の雪。 老いの良寛

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

老いることは、避けようもなくまったく自然なことである。だがひとは自然をそれとして受け入れがたい意識存在であるからこその受苦にすべてははじまる。

我生何処来            独りで生まれ
去而何処之(ゆく)        独りで死に
独座蓬窗(そう)下        独りで坐り
兀(ごつ)々静尋思        独りで思う
尋思不知始            そもそもの始め それは知られぬ
焉能(いずくんぞ)知其終     いよいよの終わり それもしられぬ
現世亦復然            この今とは それもまた知られぬもの
展転総是空            展転するもの すべては空(くう)
空中且(しばらく)有我      空(くう)の流れに しばらく我がいる
況有是与非            まして是もなければ非もないはず
不(しかず)如容些子(しゃし)  そんなふうに わしは悟って
随縁且(しばらく)従容      こころ ゆったり まかせている
                         (『良寛』東郷豊治より)

いっさい空(くう)、因縁の所生として是非の達観に従容として生きる。お題目として諳んじるほどに似たようなことばに幾度出くわしていることだろう。しかし凡人悲しいかな事おきれば茫然自失<達観>雲散霧消が正直なところだろう。

「山かげの岩間をつたふ苔水のかすかに我はすみわたるかも」

「夜もすがら草のいほりにわれ居れば杉の葉しぬぎ霰降るなり」

四十代末から六十歳にかけて、六畳一間の板敷きの人里はなれた五合庵で「独座」「独思」に<行>した良寛

庵より里に下りての托鉢と、天候の不順には筆を執り、詩を詠む<僧にもあらず俗にもあらず>の日々。しかしそれは釈迦が涅槃に入ろうとしたとき、弟子たちに垂示した『遺教経(ゆいきょうぎょう)』の実践、<悟り>の行でもあった。

良寛は次の六つの訓を『遺教経(ゆいきょうぎょう)』より抜いている。

「汝等まさによく心を制すべし」(摂心)、
「汝等もろもろの飲食(おんじき)を受くること、まさに薬を服するが如くすべし」(節食)、
「慙耻(ざんし=はじる)の服はもろもろの荘厳に於いて最も第一なりとす」(無愧の者は禽獣に異ならない)、
「忍の徳たる持戒苦行も及ぶ能わざる所なり」(堪忍)、
「汝等もし寂静無為の安楽を求めば、、まさに憒閙(はいにょう=猥雑)を離れて、独処閑居すべし」(常独処)、
「汝等もし種々戯論せば、その心すなわち乱る」。

なるほど良寛の姿そのままである。


世上榮枯雲變態   世上の栄枯は雲の変態
五十餘年一夢中   五十余年は一夢の中
疏雨蕭々草庵夜   疏雨蕭々(しょうしょう)たり草庵の夜
間擁衲衣倚虚窓   間(しずか)〔閑〕に衲衣(のうえ)を擁して虚窓に倚(よ)る


間庭百花發   間庭百花発(ひら)き
餘香入此堂   余香この堂に入る
相對共無語   相対して共に語(ことば)無く
春夜々將央   春夜夜将(まさ)に央(なかば)ならんとす


しかしまたときには、「釜中(ふちゅう)時に塵あり甑裡(そうり)さらに煙なし」<釜はあっても米がなく、こしきはあれど煙のたつことはなかった>
≪こしき【甑】
昔、強飯(こわいい)などを蒸すのに使った器。底に湯気を通す数個の小さい穴を開けた鉢形の素焼きの土器で、湯釜の上にのせて使った。のちの、蒸籠(せいろう)にあたる。≫(NET辞書より)


   草庵雪夜作     
回首七十有餘年   首(こうべ)をめぐらせば七十有余年
人間是非飽看    人間の是非 看破に飽きたり
破往來跡幽深    往来の跡はかすかなり 深夜の雪
夜雪一炷線香    一炷(いっしゅ)の線香
古匆下  良寛   古窓の下  良寛


ゆく水は 塞(せ)けば停まるを たか山は こぼてば岡と なるものを 
過ぎし月日の かへるとは 文(ふみ)にも見えず うつせみの 人も語らず
いにしへも かくしあるらし いまの世も かくぞありける 
のちの世も かくこそあらめ かにかくに すべなきものは 老いにぞありける

≪流れゆく水は、堰きとめれば停まりもする、高い山でさえ、毀せば岡とならぬでもない、ところが過ぎた月日ばかりは、戻り来るとは、物の本にも見えぬし、世の人も語ってはくれない、昔もそうだったろうし、いまの世もたしかにそうだ、後の世もまたそうだろう、とにもかくにも、どうしょうもないものは人間の老いだなあ。―『良寛』吉野秀雄より≫

老醜、老残ということばがある。良寛にしてからがこうである。<僧にもあらず俗にもあらず>のゆえんか。

行としてではなく、一己の人間の老いのことばとして厳しく侘しく響いてくる。

悲しくて、まこと<孤独な魂>陰々寂々のひびきではある。

それにしても、「死ぬときは死ぬがよろし」とは・・・。

「災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候。」名著『良寛』を著した吉野秀雄はこれに≪死生超脱の大安心≫を聞いている。分かりはするが・・・