yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

冥き青春、わが蛍雪のピンナップ。エドワード・ウェストンの性曲線艶めかしく愁う『ヌード』(1936)

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「蛍雪の功なってみごと合格する」というよろこばしい言葉がある。残念ながらわが青春には縁のないことであったけれど。ほかでもない、先日、日本経済夕刊の「明日への話題」コラム欄にゴリラ学者で有名な山極寿一氏の「闇の体験」なる一文が目に留まった。漆黒の真の闇の話であった。ゴリラ調査中、あまりの遠出の不注意から日が落ちてしまい、そのうえ、あいにくたよりの懐中電灯の電池まで切れ、おまけに≪月は出ず、曇っていたため、何も見えない。自分の手も見えないので、体があるのかどうかさえ覚束なくなってくる。息を吹きかけてみて、やっと指があるのがわかる≫自分の存在があるのかどうかさえわからないほどの漆黒の闇。目を明けているのと、瞑(つむ)っているのと同じ状態というのも不思議で、恐怖でもあるだろう。古来日食が不吉であるのもわかろうというものだ。こうした闇夜であればこそ≪耳や鼻がやけに敏感になる。ゾウの息づかいが聞こえるし、ゴリラが残していった臭いがする。≫斯く五感が研ぎ澄まされる。臭いに気配を感じるとは、いわば匂いを嗅ぐではなく、聞くということなのだろうか。ひるがえって都会の明るすぎる夜では、そうした感覚の鋭敏さが失われ≪想像力が働かず、話が弾まない。≫と述べられている。落ち着き、もの思うこと、瞑想性の欠如ということだろうか。≪相手の顔がやっと見えるような夜≫にこそ、顔つきあわせ親密な会話もおこなわれ、落ち着いて思索もなされるということなのだろう。すべてが明るすぎるのだ。まさに過剰である。明るすぎては、かの月狂いも、月めでることの風流もかなわず殺風景である。青白き月明かりの、また雪明りのもと、文字も読めるというほどの明かりで研ぎ澄まされた感性にこそ頭脳は深く明晰に応えるのだろうか。だからこその「蛍雪」なることば≪晋の車胤(しゃいん)が蛍を集めてその光で書物を読み、孫康が雪の明かりで書物を読んだという「晋書」車胤伝・孫康伝の故事から。≫(NET辞書より)であった。蛍雪時代とは、我々わが未曽有の受験時代であった。はや40年という恐ろしいほどの矢の如し光陰である。克己足らず当然のこと報われることなかったわが蛍雪は、今日取り上げたエドワード・ウェストンのこの柔らかな性曲線に艶めかしく愁いを醸す『ヌード』(1936)のピンナップ(pinup)とともに冥き青春の思い出としてある。