yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

70年代、ビルトォジティをしてフリー・インプロヴィゼーションを果敢したドキュメント『FREE IMPROVISATION』(1974)

イメージ 1

Wired - Deutsche Grammophon LP 1974 side two

               

今、どれほどフリーインプロヴィゼーションのコレクティヴな試みがなされているのか詳らかにしない。たぶん85年くらいからの急速なCD化の時代以来、私的なことともあいまって音盤から遠ざかっている身には、そのあたりの動向には不通である。
別段、買いはせずともショップで見る限りでも、その気配を窺えないようだ。もっともこの手のものはマイナーで流通度が低いこともあって店頭に並ぶこと自体ありえないことではあるけれど。
年取ってみると、マイナーであり続けるのはそれなりの理由があり、隠れた・・・なんていう事はまずほとんどないと思うときがある。たぶんほとんど稀なことなのだろう。
次のような興味あるコメントもある

ナム・ジュン・パイク――……アプローズはね、やはり否定しがたいところもあるんだなあ。僕でさえ、ヴィデオテープをエディティングするとき、アプローズをちょっと入れるとショーが際立つんだよねえ。いかにコマーシャリズムがすごいかということだね。僕は若いころはできるだけアプローズと闘ったわけだし、僕のばあい実際にもアプローズからほとんど見離されていたわけだけれど、それでも年をとってくると多少のアプローズが必要になってくるのねえ。ジョン・ケージも気にしているみたいねえ。

ナム・ジュン・パイク――僕はね、男が女を求めるように、アーティストがアプローズを求めるのは自然なことだと思う。もし欲望が完全にない人がいたとすれば、そのアーティストは経済を超えているわけだけれど、そのかわり誰もその人のことを知らないということになる。真の無名性の中にいるからね。でも、そういう人は、埋もれるには埋もれる理由があって、逢ってみると以外に陳腐なところがあるのかもしれない。≫(『間と世界劇場』松岡正剛

別にB級を否定しているわけではないけれど。芸術なんてのは正直わからない。何でこんなのがということもある。当のフリーインプロヴィゼーションもその範疇かもしれないけれど。
ところで、話は戻るけれどロックやアンダーグラウンドな実験的ノイジーの範疇ではネットを覗く限りこうしたフリーインプロヴィゼーションは活発なようだ。当方が耳にしないだけなのかもしれない。
ノイズなるジャンルがあるのもつい最近知ったわが浦島太郎。そのノイズ作家とやらの評価高いと聞く音源のサワリを聴いて、ディスコミュージックかと思ったことがある。私が時代に追いつけないだけかもしれないのでこれ以上は慎もう。
産業技術・テクノロジーが発達し、パーソナルコンピュータが一昔前のスーパーコンピュータ並みの性能で、個人が手軽に低廉な価格で手に入れることが出来る時代になった。シンセサイザー等の音楽機器材も同様容易に手にすることが出来る現在、極端な話、何の音楽的素養、訓練も積み重ねも無い弩シロウトが感性だけで、コンセプトなく方法意識も希薄、したがって持続性のない、テクノロジーへの無反省、無媒介で脳天気な心地よいノイズミュージックを作り、CD等のデジタル音源で発信ができてしまう。
現代どこの領域でも見受けられる、いわゆるボーダレスの様態である。プロとアマとの敷居をテクノロジーが潰してしまったということだ。
その昔、営々と習得に努力研鑽を要する技能、技量・蓄積が数万円のソフトで手に入り飯が食える時代である。アフリカの裸族が携帯電話を使っているさまを想像すれば足りる。そこにはエジソン以来百数十年の有線電話などのインフラ整備への膨大な努力集積がまったく欠落している。鉄道網の整備も同様一足飛びに飛行機である。
ムダを省く経済合理といえば云える。しかしこれらはこの先何をもたらすだろうか。人間には汗水たらすムダが必要なのを先、思い知ることだろう。
芸術なんてそのさいたるものだ。先人は無用の用と云ったではないか。それなくて何の心の豊饒か。ムダははなからムダであるわけではない。今迎えているのは、基礎、努力、研鑽諸々の美徳の崩壊である。
洗濯して再度手を加え、使うより数百円で買い換えるほうが安上がりの生産衣料とは何か?自転車修理するより新品買うほうが安上がりとは、いかなる経済か。修理に出すより安上がりの新品とは何か?横道逸れるのでまたとしよう。
さてイタリア・ヌーボ・コンソナンツァ、ミュージック・エレクトロニック・ビヴァ(MEV)、AMM(何の略?)、
そして今回取り上げる『FREE IMPROVISATION』(1974)LP3枚組み。ヴィンコ・グロボカールVinko Globokar(1934-)とカルロス・ロケ・アルシーナCarlos Roque Alsina(1941-)らの『ニュー・フォニックアート1973New Phonic Art1973』。
以前拙ブログにて既に取り上げたデレク・ベイリーDerek Baileyとバリー・ガイBarry Guy、ポール・ラザフォードPaul Rutherfordの『イスクラ1903Iskra1903』。
それにカールハインツ・ボットナーKarl-heinz Bottner、小杉武久とも共演しているマイク(マイケル)・ランタMike Rantaらの『ワイヤーwired』。
さて、これらのグループを論じる70年アナログLP世代の繰言もほどほどにしておこう。
これらのビルトォジティをしてフリー・インプロヴィゼーションを果敢したドキュメント。この一点でやはり語るに値する事態と私は思う。
ビルトォジティに余裕とユーモアを感じさせてみごとな『ニュー・フォニックアート1973』。内的求心の空・虚(うつ)へのコレクティヴ・インプロヴィゼーションに極限してみごとなフリージャズ、『イスクラ1903』。エレクトリック・ライヴパフォーマンスでノイズのエロスをインプロヴァイズして先進した『ワイヤー』。
いずれも70年代を象徴するとも云ってよいコレクティヴ・フリーインプロヴィゼーションの優れたドキュメントであることは間違いない。





フリーインプロヴィゼーション
www.suac.net/hmacs/20040302/PKGtrio.pdf
http://www.araiart.jp/takeda2.html