yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

繊細で慈しむやさしさの眼差しに女性らしい題材を優美なタッチで描く女流印象派の画家メアリー・カサット(1844-1926)

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Mary Cassatt:the music of Beethoven: Violin Concerto in D Major, Op. 61, II. Larghetto

              

さて今日はと。昨今幼児虐待が甚だしいのか、メディアの異常な発達で社会が劇場化したゆえ誇大なイメージをもってしまうのかどうかは、はっきりした事はわからない。はたして母性が本能的なものなのか、文化概念なのか明確にされないまま母性のほころびさえ云われ始めている。≪明治時代の人口推計によると、1872(明治5)年の日本の総人口は、3,480万人であった。現在から100年前の1904(明治37)年には、4,613万人となった。1912(明治45)年に、5,000万人を超え、1936(昭和11)年には、明治初期の人口の倍となる6,925万人となった。人口増加率は、毎年平均して1%を超えていた。こうした人口増加の背景には、明治以降の農業生産力の増大、工業化による経済発展に伴う国民の所得水準の向上と生活の安定、保健・医療等の公衆衛生水準の向上、内乱がない社会の安定等、様々な要因があげられよう。第2次世界大戦による経済社会の混乱を経て、1947(昭和22)年から1949(昭和24)年の第1次ベビーブーム期を迎えた。人口増加率は、外地からの引き揚げも加わって、年率2%を超えた。1948(昭和23)年には、総人口は8,000万人を超えたが、早くもその8年後の1956(昭和31)年には、9,000万人を超えた。この頃の「厚生白書」では、急激な人口増による「過剰人口」にどのように対応していくのか、ということを政策課題として取り上げている。ちょうど明治元年(1868年)以来100年目となる1967(昭和42)年には、わが国の人口は1億人を超えた。当時、世界の国々の中で、人口が1億人を超えたのは、中国、インド、アメリカ、ソ連(当時)、インドネシアパキスタン(分離独立前のバングラデシュを含む)に次いで7番目であった。このように明治以降の近代日本の歴史は、100年間に総人口が3倍になるという人口拡大期であったのである。さらに、1971(昭和46)年から1974(昭和49)年には、第1次ベビーブーム期の世代が結婚、出産期を迎えたことにより、第2次ベビーブーム期を迎えた。その後も人口は増大を続け、2003(平成15)年10月時点では、1億2,760万人と、過去最高の人口となっている。≫(ネット記事平成16年版 少子化社会白書より)終戦直後からしても5割、約4000万人もの人口増である。こうした人口増とメディアの過剰なまでの発達による社会の劇場化で、統計的事実以上の異常感が際だっているのかも知れない。ひと昔前なら全国ニュースにもならなかった事件が、いまや津々浦々、劇場ドラマとなり、眉をひそめつつワイドショーを覗く偽善となっている。わが身の悲惨でないことに安堵し、凶悪であればあるほど釘付けになるのだ。聞き及ぶところ凶悪犯罪件数は激増しているわけではないとの説もある。人口比で見れば分母が大きくなっているぶんだけ、ひょっとすれば相対比は却って少ないのかもしれない。ま、そんなことはともかく話が逸れた。女性の感性の繊細さ、優美、慈しむ母性の眼差しで、女流印象派の先導画家のひとりとして今や歴史に刻まれることとなったアメリカの女性画家メアリー・カサットMary Cassatt(1844-1926)の登場である。親友でもあったフランス人のベルト・モリゾも時同じくしての印象派女流画家として優れた作品を残しているが、モリゾはまたの機会として譲り、今回はカサットとしたい。西洋絵画では裸体画の習得は必須であった。であれば男性の裸体を目にし、同室にて技量習熟に励まなければならない。こうしたことは、ゆるされることではなかった。また学制においても男性の修学の妨げになるとして女性の就学はゆるされなかった。このように画家の子供である場合以外、女性が画家になることなど一般的には許されなかった時代であった。そのような時代のなか開明新興国アメリカであり、裕福な子女でもあったメアリー・カサットは美術学校に入り、そしてヨーロッパへと画家の道をめざし、印象派の画家として苦闘研鑽した。だがそれら画業が真に認められることになったのはようやく、第二次世界大戦後のことであったそうである。≪彼女が芸術家の道を進みたいという希望を告げた時、彼女の父親は、いっそうのことお前に死なれたほうが、まだましなくらいだと、きっぱりと答えた。≫そうである。また生前一応の成功は得ていたとは言うものの母国アメリカでの十分な評価には至らず、それあってか≪自らの人生は地方的偏狭さと父権的権威主義の数々の障壁を克服する闘いであったし、祖国アメリカにおいても脱出先のヨーロッパの美術界においても、そうした闘いであった≫(岩波書店『世界の巨匠・カサット』より引用)と述懐していたということである。繊細で慈しむやさしさの眼差しに慰撫される優美なタッチで題材をみごとに描く女流印象派の画家メアリー・カサットの作品を鑑賞するとしよう。

 

Mary Cassatt (Child of Mine)