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石原吉郎(1915-1977)『サンチョ・パンサの帰郷』より

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                香月泰男『シベリア』

             
  ≪神の想念は問いとなり警告となって絶えずわれわれにつきまとう   カール・バルト


           脱走

             そのとき 銃声がきこえ
             ひまわりはふりかえって
             われらを見た
             ふりあげた鈍器の下のような
             不敵な静寂のなかで
             あまりにも唐突に
             世界が深くなったのだ
             見たものは 見たといえ
             われらがうずくまる
             まぎれもないそのあいだから
             火のような足あとが南へ奔り
             力つきたところに
             すでに他の男が立っている
             あざやかな悔恨のような
             ザバイカルの八月の砂地
             爪先のめりの郷愁は
             待ち伏せたように薙ぎたおされ
             沈黙は いきなり
             向きあわせた僧院のようだ
             われらは一瞬腰を浮かせ
             われらは一瞬顔を伏せる
             射ちおとされたのはウクライナの夢か
             コーカサスの賭けか
             すでに銃口は地へ向けられ
             ただそれだけのことのように
             腕をあげて 彼は
             時刻を見た
             驢馬の死産を見守る
             商人たちの真昼
             砂と蟻とをつかみそこねた掌で
             われらは その口を
             けたたましくおおう
             あからさまに問え 手の甲は
             踏まれるためにあるのか
             黒い踵が 容赦なく
             いま踏んで通る
             服従せよ
             まだらな犬を打ちすえるように
             われらは怒りを打ちすえる
             われらはいま了解する
             そしてわれらは承認する
             われらはきっぱりと服従する
             激動のあとのあつい舌を
             いまも垂らした銃口の前で――
             まあたらしく刈りとられた
             不毛の勇気のむこう側
             一瞬にしていまはとおい
             ウクライナ
             コーカサス
             ずしりとはだかった長靴のあいだへ
             かがやく無垢の金貨を投げ
             われらは いま
             その肘をからめあう
             ついにおわりのない
             服従の鎖のように

(注 ロシヤの囚人は行進にさいして脱走をふせぐために、しばしば五列にスクラムを組まされる。)



            事実

              そこにあるものは
              そこにそうして
              あるものだ
              見ろ
              手がある
              足がある
              うすらわらいさえしている
              見たものは
              見たといえ
              けたたましく
              コップを踏みつぶし
              ドアをおしあけては
              足早に消えて行く 無数の
              屈辱の背中のうえへ
              ぴったりおかれた
              厚い手のひら
              どこへ逃げて行くのだ
              やつらが ひとりのこらず
              消えてなくなっても
              そこにある
              そこにそうしてある
              罰を忘れられた罪人のように
              見ろ
              足がある
              手がある
              そうして
              うすらわらいまでしている



            納得

              わかったな それが
              納得したということ
              旗のようなもので
              あるかもしれぬ
              おしつめた息のようなもので
              あるかもしれぬ
              旗のようなものであるとき
              商人は風と
              峻別されるだろう
              おしつめた
              息のようなものであるときは
              ききとりうるかぎりの
              小さな声を待てばいいのだ
              あるいは樽のようなもので
              あるかもしれぬ
              根拠のようなもので
              あるかもしれぬ
              目をふいに下に向け
              かたくなな顎を
              ゆっくりと落とす
              死が前にいても
              馬車が前にいても
              納得したと それは
              いうことだ
              革くさい理由をどさりと投げ
              老人は嗚咽し
              少年は放尿する
              うずくまるにせよ
              立ち去るにせよ
              ひげだらけの弁明は
              そこで終わるのだ

                      石原吉郎サンチョ・パンサの帰郷』より



≪・・・この生きないわけには行かないということは、なんと理解しがたい、重苦しいことだろう。≫

≪「生命を正しとすれば、死が誤りとせらる」――       カール・バルト


≪自己という存在は、この世界にくらべるもののない、まったく独自の存在であると同時に、あらゆる存在とまったく同じ運命をついにのがれ得ないこと、ここにICHの底の知れない不幸がある。≫(以上、石原吉郎『望郷と海・ノート』より)




カール・バルト(Karl Barth、 1886 - 1968)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88