yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

「怒り心頭に発するか」か「怒り心頭に達する」か

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         漢字に遊び、鬼神の如く研究道を極めて白川静享年96歳、ご逝去さる。合掌。


以下は、独学孤高、反骨の大漢字学者の逝去を悼むといいながら、我ながらなんと勝手な言いぐさで恥知らずなことかとおもいつつの一文である。
「きもい」だの、「きしょい」だの、これはいったい何か?と当初わが子の言い放つ言葉にとまどったのはいつのことだったろう。気持ち悪いが「きもい」に。気色わるいが「きしょい」にどうしてなったのだろうか。感情表現のはっきりしないのはどういことなのだろう。ついぞ確認しないまま今に至っている。当方、言葉の乱れなどということに別段目くじら立てるほどの、お堅い性格でないせいか、というより<ええかげんな>人間なのか、つねひごろ、信じられないそうした言語感性、造語能力に変に感心するほうであった。コミックなどには、ひらがなの「あ」などに濁点をつけて使われていると聞いて妙に感心した覚えがある。言葉って面白いものだなとむしろ思うくらいのものである。もっとも学者、教師という立場であれば、このようなことで済まされないのはご尤もなことと思いはするけれど。だいぶ前だけれども<激しく怒る>の意の「怒り心頭に発するか」か「怒り心頭に達する」か、どちらが慣用句として正しい使い方かという文化庁の「国語に関する世論調査」の結果が新聞等メディアを賑わしたのを憶えておられることだろう。私など誤用の「怒り心頭に達する」のほうがイメージに沿うようで面白いではないかと連れ合いに言ったものである。ようするに、「頭にくる」というイメージにピッタシではないかと思ったのである。ちなみに、「発する」を「達する」と誤って用いていた人が74.2%であり、正解のほうはといえばわずか14パーセントということである。(いま、この稿綴っていて思ったけれど、両方足しても100%になっていないのはどういうことなのだろう。どう解釈したらいいのだろうか。)この「心頭」とは、中国文学者によれば<アッタマに来た>とは無関係で、「心」と「頭」のことでもなく、「口頭」や「念頭」の場合などと同様の「心」につく接尾語で、意味はとくに無いそうである。<心頭を滅却すれば火もまた涼し>という有名な句があるのはご存知のとおり。怒りという<心>的現象がアタマ(脳)へおもきを置くようになった事の表れなのだろう。<心>が心臓から脳へという、ハートがヘッドへ集約された現代を表しているのだろうか。そう思えば別に「怒り心頭に達する」の誤用の多さも分かる気がし、あえて間違ってますよなどと、ことさらに言い募るのは無粋なことのようにも思える。今日の新聞でも高島俊男という中国文学者がメル友(とも)に異を唱えていたのを目にした。それなら学友はガクトモか?という訳である。メルユウなどというダサさを避けてのメルトモではないのか知らんと、私には思えるのだけれど。言語感性のしなやかさと受け取るのは若者へのたんなる私の媚なのだろうか。メールという外来語と友達をくっつけてメルトモで何がおかしいのだろうか。メルユウのほうが尻こそばゆいのは私だけなのだろうか。