yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

アンドレイ・タルコフスキーと水

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私達が一日一日を平穏に暮らしていられるのは、この広い空の下のどこかで名も知れぬ人間が密かに自己犠牲を捧げているからだ。  タルコフスキー
    (YOUTUBE) ノスタルジア・nostalghia――――

おおよそ10分の感動的シーンである。しかし耐え忍ばなければならない。単調に映像は運ばれる。いや、繰り返しとも云っていいくらいである。見つめつづける。息をつめて・・・。風に炎が消える。また灯す。燈をはこぶ。また、風で炎が消える・・・。やっと意は適えられる。火は灯しつづける。ゆれるローソクの炎。静かな祈りの荘厳が貴方に音連れることだろう。


    


先日ブログにて、水のことについて少しふれた。というのも、取り上げたアルバムが、巨大な鍾乳洞の洞窟内でパフォーマンスされた電子音楽であったからだった。悠久の時を刻み鍾乳石をを作り上げる地下水の滴り落ちる音、満々とたたえ黙して澄明な地下水との戯れる人為がおりなす音の電子変容はテクノロジーをもってしての生命始原へのタイムトリップの趣であった。洞窟と水ということで、生命の生誕の原基である水と海、そして洞窟が子宮とその羊水と同定され、人間の生誕、その生命進化の永きを思ったことだった。人は子宮羊水の中で、海から陸へと生物進化してきた道のりを歩む。すなわち、個体発生は、系統発生を繰り返すというかの有名なヘッケルの反復で、子宮羊水のなかで一気呵成に生命史を駆け抜けるというものであった。そこには人が水を欲し、のど潤し、澄む水に浄化慰撫され、心洗われるというような感性の原基があったとする根源的イメージがある。水に人は和む。


     湧くからに流るるからに春の水 夏目漱石

     さざなみをたたみて水の澄みにけり 久保田万太郎

     冬の水一枝(いっし)の影も欺かず 中村草田男

     流れ行く大根の葉の早さかな 高浜虚子

     よき水に豆腐切り込む暑さかな 井上井月(せいげつ)

     若鮎の二手になりて上りけり 正岡子規

     五月雨の降のこしてや光堂 松尾芭蕉

     山清水ささやくままに聞入りぬ 松本たかし

     滝落ちて群青世界とどろけり 水原秋桜子

     秋風や水より淡き魚のひれ 三橋鷹女

     みづうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波にうつろふ 島木赤彦

     せせらぎに蔓さしわたす山藤は十房ばかりを水に写せり 吉野秀雄
 
     川の瀬に立つ一つ岩乗り越ゆと水たのしげに乗り越えやまぬ 窪田空穂

     髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ 与謝野晶子

     大海の磯もとどろに寄する波割れて砕けて裂けて散るかも 源実朝

     風をいたみただよふ池のうきくさもさそふ水なくつららゐにけり 藤原良経


≪彼(か)の人の眠りは、徐(しず)かに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱む(よど)んでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。
した した した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずと睫(まつげ)と睫とが離れて来る。膝が、肱(ひじ)が、徐(おもむ)ろに埋れていた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。全身にこわばった筋が、僅かな響きを立てて、掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけているのだ。
そうして、なお深い闇。ぽっちりと目をあいて見廻す瞳に、まず圧(あっ)しかかる黒い厳(いわお)の天井を意識した。次いで、氷になった岩床(いわどこ)。両脇に垂れさがる荒石の壁。したしたと、岩伝う雫(しずく)の音。
時がたった――。眠りの深さが、はじめて頭に浮んで来る。長い眠りであった。けれども亦、浅い夢ばかりを見続けて居た気がする。うつらうつら思っていた考えが、現実に繋(つなが)って、ありありと、目に沁(し)みついているようである。≫(折口信夫死者の書」)


水がかもし出すイメージのなんと人間感性を豊かにかつ艶やかに移ろわすことか。まさに水はいのち洗い、潤す。

その水を描いて抜きんでているのがアンドレイ・タルコフスキーAndrei Tarkovsky (1932~1986)であることは夙に知られたことである。ともかく水の描写が多いのであった。滴り落ちる水、流れる清水に透けてたたずむ水中のあでやかな色を見せる花々の描写。川面、雨水の溜まり水。それに静謐がながれる世界。ともかくどれもこれも鮮烈であった。その執拗な水へのこだわりを、子宮羊水への母性回帰願望として、メタフォリックに語る論評も多い。例えば≪つまり水そのもの.水のイデア.人間は水がなければ生きられないということの最初の意味は胎児にとっての胎内の羊水である.人は羊水の「意志」がなければ誕生することはなかった.≫といったようにである。これはこれで肯けるところもある。若水による命の蘇生という行事も知られたことである。このように、ことが生命と相同の水であるからだけれども。さて、このタルコフスキーをことのほかマイフェイバリットとして賞賛していたのが、映画狂といってもいいくらいの映画通の作曲家武満徹(1930-1996)であった。その武満は、タルコフスキーの死後にその死を悼んで、弦楽合奏曲『ノスタルジア--アンドレイ・タルコフスキーの追憶に』を作曲、タルコフスキーに捧げてもいる。

≪武満 僕は『ノスタルジア』が好きです。『ノスタルジア』も、やはり暗い作品だったんですけど、今度ほど息が詰まるようなところはなくて、もっと楽しめたんですね。
・・・さっき宇宙論的な同義反復ということを言ったんだけれど、いつも彼の映画には水が出てくる。そしてその水はいつも何かを映している。映画が水を写して、その水に何かが映っている。つまり、その映画自体が映っている。そういう反復ですね。それはこの生まれたり死んだり、ということと同じことです。

・・・ “水”にしても、そのイメージが非常に終末論的なイメージを伝えるけれど、同時につねに、始源の感情というものを伝えている。≫

始原の感情、『ノスタルジー』である。そこには澄明な≪何かを映している≫水がある。
≪内なる故郷から、ひたひたと水はあふれてくる。≫

そういえば、満々と地下貯水タンクに水を湛え、地球をも、人体をも通過してしまうという、それゆえ観測発見を許さなかった宇宙のかなたからの物質の情報を捉えて、百三十七億年かなたの始原の記憶をニュートリノ検出で呼び覚まし、新たなる宇宙、物質始原への探求の旅へといざなうことに寄与し、ノーベル物理学賞を受賞された小柴昌俊氏のカミオカンデを思い出した。これも地下洞窟の中、超純水が映し出したものであった。


【たしかに私の映画の中にはたくさんの水が出てきます。水や河や小川が、私に非常に多くのことを語りかけてくるのです。
・・・中略・・・
問題は、水がとてもダイナミックだということです。
水は動きを、深さを、変化や色彩を、反映を伝えます。これは地上でもっとも美しいもののひとつです。水よりも美しいものは存在しません。
水の中にその姿を映し出すことのなかった現象はひとつとして存在しません・・・
「水-この地上でもっとも美しいもの」】

                    ――――アンドレイ・タルコフスキー











大林太良『正月の来た道』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0451.html


折口信夫(おりくち しのぶ、1887年~1953年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%98%E5%8F%A3%E4%BF%A1%E5%A4%AB


カミオカンデは3000トンの超純水を蓄えたタンクと、その壁面に設置した1000本の光電子増倍管からなる。ここで使用された光電子増倍管は研究グループと浜松ホトニクスが新規に共同開発した口径20インチのものである(一般に広く使われるのは口径2インチ型)。
カミオカンデが地下に設けられたのは、ニュートリノ以外の粒子の影響を避けるためである。ニュートリノはものを貫通する能力が高く、他の物質と反応することなく簡単に地球を抜けていってしまう。しかし、まれに他の物質と衝突することがある。
カミオカンデは、このまれに起こる衝突を検出するために、超純水をつかう。カミオカンデの内部には超純水がたたえられており、ニュートリノが水の中の電子に衝突したあとに、高速で移動する電子より放出されるチェレンコフ光を、壁面に備え付けられた光電子増倍管で検出する。
チェレンコフ光を検出した光電子増倍管がわかると、計算によりどの方角からきたニュートリノによる反応かがわかるしくみになっている。このしくみにより、カミオカンデは1987年2月23日、大マゼラン星雲でおきた超新星爆発 (SN 1987A) によって生じたニュートリノを世界で初めて検出することに成功した。この功績により、2002年小柴昌俊東大名誉教授は、ノーベル物理学賞を受賞した。≫(WIKIPEDIA