yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

稀代のスキャンダラスなダダイスト、マルセル・デュシャンと現代音楽の革命児ジョン・ケージのパーカッション・ソロアルバム

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

              
       (中)大ガラス作品『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも
          ・The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even』<1915~1923年>

       (下)の楽譜はマルセル・デュシャンの『Erratum Musical』(「音楽的誤植」)。
          上記大ガラス作品についてのデュシャンの構想メモやデッサン、写真などの資
          料を収めた《グリーン・ボックス》内に収められているもの。



さて、今日は何とはなしに躊躇しながらのアルバム紹介となった。この取り上げたアルバムは、たぶんジョン・ケージマルセル・デュシャンの名が見え、かつアルバムデザインにデュシャンポートレートが、ガラスの亀裂とともにデザインされているということで、中身はともかく、というよりわからないまま購入したのだろう。この稀代の、スキャンダラスな行為の数々で神格化さえされたダダイストマルセル・デュシャンと、幾分かはそのダダ的精神の影響を受け、実際に親密な交流もあったとも謂われている、これまた日本の禅や中国の易思想に影響感化され、不確定、偶然性のコンセプトを音楽に持ち込んで戦後現代音楽の革命児、いや、山師ともいわれ褒貶喧しかったジョン・ケージの名が見えるパーカッション・ソロアルバムである。アメリカのパーカショニストのDonald Knacckによるアクースティックな打楽器即興ソロ作品である。一曲目は、かの有名なマルセル・デュシャンの大ガラス作品『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』<1915~1923年>となんらかの関係があるのだろうか『The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even.Erratum Musical』(1913)と銘打ったパーカッションリアリゼーション作品。(この項終えてデュシャンの散文・ノート集の『表象の美学』(牧神社・1977)を手に、パラパラ繰っていると、まさにこの『Erratum Musical』の楽譜が目に飛び込んできた。まったく記憶からは霧消していた出会いであった。「音楽的誤植」とあり、注には、三つの楽譜を三人が三度繰り返すテキスト。楽譜は異なった音調で出来ていて、三人が帽子に入れた籤をひいて自分のパートを決めることになっていた。と説明されている)このように意図せざる誤植、間違いはデュシャンにとっては重要な概念であったけれど。2曲目はジョン・ケージの『27'10.554" for a percussionist』(1956)。なんとも、名前負けといってしまえばいいのだろうか。本来取り上げるべき出来の作品とも思われないのだけれど、ジャケットデザインを眺めるだけでも、これはこれでお役が立ち、成仏できるのではないかと思い、取り上げたのが正直なところである。エレクトロニクなリアリゼーションであれば、サウンドの異形、多彩さもあり、私などのシロウトでも多少なりとも楽しめただろうけれど、アコースティックなパーカッションソロ、それもせめて音色の面で妙味を聴かせるならともかく、こうも散発的に音の煌きを感じるでもないフリーインプロヴィゼーションソロを聴くのは、いささか難儀なことであった。我が若き日々の鬱屈の心に幾分か共感を占めたダダイストマルセル・デュシャンを想うという意味だけでも私にとってはブログに登場させるのも許されるのではと取り上げたまでである。



松岡―――素粒子にはアイデンティティがないように、われわれにだってないとおもいますね。一見、こ

     れこそおなじだとおもわれる記号的世界にだってアイデンティティはない。そこに「場」がつ

     いてくるからです。たとえばletterという字をタイプライターで打つと、eとe、tとtという二

     つのおなじ文字が見えますが、その文字を紙ごとひとつひとつ切ってみるとうまく入れ替われ

     ない。場の濃度が変わってくるからです。われわれの身体の細胞だって一ヶ月もあれば全部別

     のものになっています。きっと、断続的連続においてのみアイデンティティは生じてくるだけ

     なのです。僕はそれを「差分的存在学」というふうに考える。電光ニュースのようなもので 

     す。

ケージ――デュシャンがいったことで、「記憶に焼きついたものを他のものにそのまま写してはならな 

     い」という言葉があります。ひとつのtを見て、次にふたつめのtを見るとき、最初のtは忘れ

     なければいけないんじゃないですか。

松岡―――電光ニュースとはそういうことです。


                         松岡正剛 『 間と世界劇場 』 より