yuki-midorinomoriの日記

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予期しないときに出会う感動、暇つぶし立ち読みの功徳。ナルホドの抜書きブログ

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今日、久しぶりに古本屋とタワーレコードに足を運んだ。別にこれといって目当てがあってのことではない。要するに暇つぶしである。行ったからといって手ぶらで帰ることもしばしばである。並んでいる本の背を見るだけでも、そうだこれを読まなくては、これは積読のままだ、などと思いを起こさせはするがそれもいっときのことで、結局は読まずにいたるのが常ではあるけれど、一瞬でもそうしたやる気が芽生えるだけでも、こうしたことは気分の転換として効用があるのかもしれない。ネット時代の今日でも、時代の流れ、新しい情報を知る意味でもウインドウショッピングはたんなる暇つぶし以上のものがあると思える。ところで、以前、詩人・石原吉郎の「望郷と海」(筑摩書房・1972)をブログ記事のためにパラパラと繰っていたとき目にとまった文章があった。もちろん常々私も思っていたことであったからこそなのだろうけれど、それは以下のようなくだりであった。≪通りすがりに街頭で、ふと耳にする旋律の美しさにおどろくことがある。書店の店先で、何気なく開いた詩集の一連、画集の一ページに目をみはることがある。私は、多く行きずりに美しいものに会う。詩集や画集を求めて帰り、自分の机に置くとき、それらの魅力は色あせ、店頭でのあの生き生きとした感動はもはやよみがえらない。予期しないときに出会うものの美しさ。私たちを立ちどまらせる感動。私は求めているときにそれに会うことがなく、求めていない時に不意に出会うのだ。≫こうしたことは誰しもが経験していることだろう。何気なくふと目にし、あるいは聞こえてくるものの感動。こと改まり、身構えての応接対座にはついぞ訪れない心の動きとも言えるだろうか。


★―例えば、暑いとき、「暑いな」と思う。風が吹いたりしている時、言葉にしないで、ふと何かに触れたと思えることがある。

▲―例えば「無を感じる」という形でね。

★―自然とはむしろ、その「無」に近い。本当の自然は、むしろ知覚の対象になっていないわけです。だからこそ、僕は、「忘れもの」とか「気配」を重視した。しかし、仏教全体とは言わないけれど、密教に感じているのはそれではない。密教は人工性への努力のようにも思える。密教大自然をその一部において一挙に獲得するでしょう。部分から全体を導く。しかし、日常、そんな密教などに携わらない人達が感じていて、言葉になり切らないもの、つまり密教の言う不立文字は、密教にはなくて、巷にあるのではないか。衆生の持っているものが自然で覚者の持っているものが、人工的自然なのです。「人工」という言葉が誤解を招きやすいので、これを「抽象自然」と言っておきます。

▲―意味は大体わかりました。続けてください。

★―八百屋の親爺さんが、論理ではなくて、風が吹く体験から得たものこそが素晴らしいと僕は思っている。そこには「行」はない。体験のみです。これに対して密教は、最高の論理への到達を目指す。鮮明で最高の論理を使っている。けれども、この両者の行き着く果ては同じでしょう。僕はただ、そこに「自然」の安売りが語られすぎていることに非二十世紀的なものを感じている。

      ・・・・・

▲―人間は目的を持っているのか、いないのか。それから、いわゆる目的は方向を持っているのか。生きる目的はあるのか。その目的への途中で、人工化がおこる。そういうものがあるのでしょうか。

★―ないですね。

▲―無目的で……。

★―そうです。目的があるなら、当然、自覚はないでしょう。「先の先」ができていれば自覚は不必要です。だから、感覚そのものが自然であって、目的はない。つまり、人工とは、閉じるものである。「過未無体」と華厳で言います。それは、過去と未来のない境地という意味です。そして、過去も未来もある人工的な論理を駆使して、「過未無体」という寂浄の境地に突進する。だから、論理を一度使ってすぐ消費して無くすという、この抽象の極地がヒンドゥイズムやブッディズムではないですか。

ことさらに<行>を行なうことなく、無は気配として、そこはかとなくおとずれてくる。万人にそれはあちらからそこにやってくる。Here and There そのままからこのままへ。<信>としてやってくる。

まさに≪言葉になり切らないもの、つまり密教の言う不立文字は、密教にはなくて、巷にあるのではないか。衆生の持っているものが自然で覚者の持っているものが、人工的自然なのです。「人工」という言葉が誤解を招きやすいので、これを「抽象自然」と言っておきます。≫


    ★――松岡正剛
    ▲――津島秀彦

津島秀彦(松岡正剛共著『二十一世紀精神』工作舎・1975)

セレンディピティー【serendipity】という言葉もある。

≪求めずして思わぬ発見をする能力。思いがけないものの発見。運よく発見したもの。
◆イギリスの作家ホレス=ウォルポール(1717~97)の造語。ウォルポール作の寓話 The Three Princes of Serendip(1754)の主人公にこのような発見の能力があったことによる。Serendipはセイロン(現、スリランカ)の旧称。≫(ネット辞書・大辞泉より)


「静かに座ってじっと待っていれば、人生は向こうからやって来る」≪米・画家アンドリュー・ワイエス


さて、ひさかたの古本屋で立ち読みをしていて、こんなことが書いてあったのかとあらためて感嘆しての以下は抜書きである。


≪哲学者たちの言うとおり、人生は過去にさかのぼって理解すべきだというのはまったく正しい。しかし、彼らはもうひとつの視点を忘れている。つまり、前に向かっていきねばならないということを。≫(ゼーレン・キルケゴール/1843)

≪・・・・そうして、この生きないわけにはには行かないということは、なんと理解しがたい、重苦しいことだろう。≫(石原吉郎「望郷と海」)

≪「生きることの困難さ」とは「積極的に生きることの困難さ」である。労苦や悲しみに押し流されている間は、この困難さへの認識はない。≫(石原吉郎「望郷と海」)


人生は語ることなのだろうか。生きることに尽きるとの呟きがある。それは宗教だ。既にもはや、人は生きてしまっている。苦労の種はごまんとある。悲惨な人生に事欠かぬ。生き難さは必定ときている。とすれば、問題は<存在>ではないのかとの思いはつねにある。


≪人間は理解する能力をもつ。だがその無知は、いまだに底知れないほど深い≫

≪人間は対称性に惹かれる。が、対称性は行き止まり(デッドエンド)なのだ≫

≪対称性は人間を魅惑すると同時に拒絶する。対称は完成と同時に死であるからだ≫

≪不完全なパターンには本来、固有の「躍動」(エラン)が備わっているという事実こそ、パターンの哲学に潜む大きな秘密なのだ≫

≪人間とは、偶然によって支配された世界における、普遍的・有機的・社会的かつ個人的な形態形成的動向の表現である≫

≪真理は誤りを含んだ単純化によってのみもたらされる≫

≪過去の体験からの類推はいっさい無効だからである。目の前にはかつてない新しい状況があり、これに対処するには従来と違う方法が必要なのだ≫

≪科学は人間の状況を解明することはできるが、いかに行動するかの判断はあくまで人間自身に委ねられるべきである≫

以上はランスロット・L・ホワイト『形の冒険』(工作舎・1987)の解説文のなかでピックアップされた本文中の語句である。ザル頭もいいところである。本屋での立ち読みで改めて知ることになったのだから。しかし刺激的でいいことばかり書いてある。今日は立ち読みの功徳、ナルホドの抜書きブログであった。画像は、W・アマデウスモーツアルトのアルチュール・グリュミオークララ・ハスキルのピアノとの二重奏によるヴァイオリンソナタ第40番、42番のもの。