yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

無根拠な、無に充溢する空・虚へとなだれ込むランダムネスの透き通った放心の美。デレク・ベイリー『IMPROVISATION』(CRAMPS/1975)

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たまには、ランダムの極み、デレク・ベイリーDerek Bailey(1930-2005)のギターインプロヴィゼーションもいいものである。イタリア、CRAMPSレーベルのそのものズバリのそっけもないタイトル『improvisation』(1975)。このアルバムは比較的聴きやすくて、よく出来ていると私がおもっているもののうちの一つ。脈絡もなく、いや、絡めとられることなくといったほうがいいのかもしれない。彼は自分のフリーインプロヴィゼーションプレイをノンイディオムのそれと言い募っているという事である。意識下に記憶として制度化されたイディオム、パターン、フレーズ、リズム等すべてからの逸脱、開放を試みての前代未聞の遂行であった。(ケージ――デュシャンがいったことで、「記憶に焼きついたものを他のものにそのまま写してはならない」という言葉があります。)これは以前拙ブログで採り上げたデュシャンの有名なことばである。まったきランダムネスの意味づけを拒否した裸形の音への漸近。以下はすべてこの稀代にして孤高のジャズギタリスト、デレク・ベイリーを論じての拙ブログでの言葉から。

≪それは意味づけ拒む空虚のランダムネスに透き通った放心の美を垣間見せる。無根拠を根拠とせざるを得ない価値相対の無窮、その解体的白々としたノンイディオムフリーパフォーマンスに言葉は呑みくだされ口つむぐほかなく私たちは屹立する。無根拠な、無に充溢する空・虚へとなだれ込むランダムネスに音連れるものは何か。≫

≪厳しく一閃の輝きを放つ音たちをランダムネスに空間に撃ち込み、<虚>に訪れる<無い>ことの、<意味>関係こそぎ落とした裸形の響きの美しさを垣間見せてくれていた。そうした先鋭のランダムニスト、デレク・ベイリー

≪意味を拒絶し弾け砕け散る冷たく硬質な音のブラウン運動。音に人称はいらない。その響きの前に意味は砕け散る。裸形の輝きはなつ響きに人は漁どることを忘れひたすら聴くことに無化してゆく。ここにこそ共有の場が生起する。無名にして虚空にそれ自体として消え逝く音。≫

≪すべての関係性から解き放たれた時間を音へと量子化し空無へと雪崩れ落ちてゆくデレク・ベイリーの壮絶な拒絶と、すべてを受け入れる慈愛のノンイディオマティックギター。≫

≪それにしてもデレク・ベイリーのはじき出す一音には音空間を凍りつかせるほどの厳しいまでの決定を宣するエネルギーに満ちている。≫

デレク・ベイリーDerek Baileyのギターからはじき出される無機的な押し殺した凝縮の一撃・一音が世界を確定する。その決定性は異様でさえある。≫

≪それにしてもデレク・ベイリーのギターがはじき出す冷厳な音がもつ、コレクティヴな演奏の場に与えるインパクトには恐れ入る。異様に厳しく無機質なギター音がもつ演奏空間での求心的な影響力の得体の知れなさはいったいどこから来るのだろうか。≫




【以下工作舎刊、オブジェマガジン『遊』<1008>号(1979)のデレク・ベイリーへのインタビュー記事からの抜粋である。(再録)

≪兎も角、速度と音、この二つの関係が大切なことは確かだ。≫

≪朝起きて何かを作曲し、それを確かに演奏させる、私には考えられないことだね。一般にはその方が.立派なことで権威があるかのように考えられているようだけれども。フィジカルな演奏以外には考えられない。≫

――楽譜という抽象的記号を通して演奏するということに関してはどうですか。

≪それは大きなテーマだが、私にはほとんど無意味なことだ。ますます意味がなくなってきた。長年演奏してくるにつけて。.職業的に演奏していた頃は、いやでも楽譜を読まなければならなかった。それでないと雇ってもらえなかったしね。読みもし、書きもした。だが、もう何年も楽譜というものを使っていない。音楽を紙に記す、音楽的情報を紙を介して伝えることに関して、私は何の共感も感じない。≫

インプロヴィゼーションと作曲とのひとつの違いは、時間的要素だろう。ひとつの音という容器に込める時間。作曲するなかで、音本来が持っている時間が希釈されてしまう。何も知らないということの雲から放射されてくる音ほど強力なものはない。日本式にいうと「無明の明」ということかな。増大する知識に抗してこの無明の明の境地に至るにはどうしたらいいか。演奏にまつわるさまざまな知識やノウハウを、どうやって解消していくか。インプロヴィゼーションを続けるには、この無明の域を持続させていくことが一番肝心だ。ノウハウを蓄積するのとはちょうど逆のことになる。無明を持続するノウハウを知りたい、とすら思うね。(笑)≫

インプロヴィゼーションを続けるのに、二つの問題を超越しなければならないと思う。ひとつはキャリア志向。そして自分のやったことで、みなに満足してもらおうとする、関係性への幻想。第一の問題の解決は言ってみれば簡単だ。誰も雇ってくれないような奏者になればいい。≫

≪私の場合を言えば、ともかく演奏しているのが一番好きだから、演奏することの意味だとか、その結果などというものは考えたくもない。≫

≪自分の演奏に対して、どんな意見を言われても完全に無視すること。客が一人も入っていなくとも、どんなジャーナリストが来ていても、いなくても、それら一切のことを気に留めない。アートを問題にしているというのに、あらゆる意見にいちいち耳を傾けるというのは、二十世紀的風潮に思えてならない。ポピュラリティーというのが何らかの価値を意味するようになっているようだ。≫

≪人間が始めて音楽というものを生み出したとき、それはフリーインプロヴィゼーションであったに違いない。またあらゆる時代にも、フリーインプロヴィゼーションはあった。たとえばどんな短い、小さな、人知れずおこなわれた行為であったにせよだ。儀式以前の初期の音楽、あるいは子供が鳴らす音……楽器やものをもったあらゆる人が、どこかの時点でフリーインプロヴィゼーションをやっている。≫  】




≪かくまでの拒絶と矜持、融通無碍の自在境のうちに、『際限なく新しい音への投企』へとおもむいたデレク・ベイリー。2005年12月24日深夜ロンドンの自宅で死去。MND(運動ニューロン疾患)による衰弱死。享年75歳。≫

それにしても死を招く事となった(運動ニューロン疾患=筋萎縮性側索硬化症)とは、まるでデレク・ベイリーが神経体の約束事さえも解体し身罷ったというイメージを勝手に抱懐し、いささかの凄絶を感じるのは私だけだろうか。



Youtubeなるサイトがあり音と映像が見れるとは初めて知った。これから大いに利用させて貰うことにしよう。
Derek Bailey
http://www.youtube.com/watch?v=A5dz_1meBjY



デレク・ベイリー音源の試聴――
※(間違って、<買う>をクリックしないように注意してください。)
http://listen.jp/store/artist_17332.htm