yuki-midorinomoriの日記

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『人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです』(ドストエフスキー)

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私のブログへの訪問履歴を頼りに、上がりこみ読ませていただいたブログに「人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです。」というコトバを拝見した。しかもこの言葉はドストエフスキーの小説文中のものとあるではないか。たぶん忘れてしまっていたのだろう。主要作品の殆どは学生時代に読んで、感動と熱狂の渦に巻き込まれた、そのドストエフスキーではないか。しかし無理もないことかもしれない。はや40年近い歳月が流れ去っていったのだから。言葉を生業とせぬ過ぎ去りし人生の月日であってみれば、無理もないと一人言い訳がましく慰めていることである。気になり、本棚からあれやこれやとページを繰りはしたものの出てくるわけはない。長編ばかりで、言葉で埋め尽くされた中、わずか一行にみたぬ言葉が眼に飛び込んでくるわけがない。コメントなり、線引きでもしていたら可能性もあるだろうけれど、残念ながらそういったマメな癖もなく、というより漫然と読み流す、読みっぱなしという能無しの最悪の読書であったからだ。しかも一度読んだものには、感動しようが読み返すこともせず、つぎつぎとノルマのごとき読書をつみかさねてきた。もっとも、記憶にないのもザルということもあるけれど。ちなみに、以前、車中でのラジオ放送で話していたが、作家阿刀田高は読んだ本のストーリーを殆んど記憶しているそうである。本当かなと思いつつ聞いていたけれど、フランスの天才数学者アンリ・ポアンカレは何ページのこの部分と諳んじて見せたというエピソードもあるくらいだから、あながち誇張でもないかもしれないと聴いていた。さてそのドストエフスキーの印象深い言葉の、その確証をもとめての家捜しとなった。もっともこの言葉だけでなく、印象に残っている挿話、描写部分などが見つけ出すことできず、忘れ物をしてそれが思い出せない時のように、すっきりしない落ち着かない気分で日々過ごすのも暫しである。なにやら穏やかでない。ブログで文章綴るようになるとなおさらである。ということで、てっとり早く、評論集を紐解くことにした。てき面であった。ページ繰ること数十分、見つかった。間違いなくドストエフスキーの小説『悪霊』文中の言葉(キリーロフの言葉)であった。抜書きしよう。桶谷秀昭の『ドストエフスキー』からである。


≪「きみは葉を見たことがありますか。木の葉を?」(キリーロフ)

「ありますよ」(スタヴローギン)

「僕はついこのあいだ黄色のを見ましたよ。もう青いところは少なくなって、ぐるりが枯れかかっているんです。風に飛ばされたんですね。僕は10ばかりの頃、冬わざと目をふさいで、葉脈の青々とくっきりした木の葉を想像してみた。陽がきらきら照っているんです。それから目をあけて見たとき、なんだか本当にならないようでした。だって実にいいんですものね。で、僕はまた目をふさぐ」(キリーロフ)

「それはなんです。比喩ででもあるんですか?」(スタヴローギン)

「い……いや、なぜ?僕はただ木の葉……ほんの木の葉のことをいっただけです。木の葉はいいもんです。何もかもいいです」(キリーロフ)

「何もかも?」(スタヴローギン)

「何もかも。人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです。それだけのこと、断じてそれだけです。断じて!それを自覚した者は、すぐ幸福になる、一瞬の間に。あの姑が死んで、女の子がたった一人取り残される、――それもすべていいことです。ぼくは突然、それを発見した」(キリーロフ)≫


確かにあった。…………胸を打つ。しかし、この言葉、キリーロフの<人=神>思想・・・。神を必要としない新人の幸福。

たしかに<太陽は輝き、木の葉はきらめき、小鳥は囀っている>・・・


肝心の部分が、所有している米川正夫訳の全集本で見つけることが出来ず、評論からの引用ばかりとなるが埴谷雄高訳で有名なヴォリンスキーの『ドストエフスキー』では次のようになっている。というより抜粋箇所が少し違っている。

≪『人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです。それだけのこと、断じてそれだけです。断じて!それを自覚した者は、すぐ幸福になる、一瞬の間に。・・・・すべてがいい、すべてが!すべてがいいということを知っている者は、すべてがいいのです。もし世の中の人が、自分たちにとってすべてがいいとということを知ったら、すべてがよくなるんだけれど、彼らがすべて善なりということを知らないうちは、彼らにとってもいいことはないでしょう。それが全部の思想です。もうその上ほかの思想なんかありゃしない!』



≪人間は幸福のために生まれるのではない。人間は自分の幸福をあがない取るのだ、しかも常に苦痛によって。そこには何の不公平もない。何故なら、人生を知ること、生活意識(つまり、直接肉体と精神とによって、すなわち生活のプロセス全体によって得る矛盾せる感覚)は、経験、すなわち肯定と否定(pro et contra)によって獲得される。その肯定と否定とをみずから背負わねばならぬ。≫(『罪と罰』創作ノート・桶谷秀昭の『ドストエフスキー』より)

【あがな・う【贖う・購う】
[動ワ五(ハ四)]《「あかう」から》1 (贖う)罪のつぐないをする。「死をもって罪を―・う」2 (購う)あるものを代償にして手に入れる。また、買い求める。「大金を投じて古書を―・う」】


≪・・・まったく人は誰でもすべての事について、すべてに人にたいして罪があるのです。・・・≫(『カラマーゾフの兄弟』)






桶谷 秀昭(おけたに ひであき、1932年 - )
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E8%B0%B7%E7%A7%80%E6%98%AD