≪芸術家の主観が支配的要素とならない絵画≫コンバイン、コラージュ絵画のロバート・ラウシェンバーグ(1925-)
Art:21 Elegy for Robert Rauschenberg Music:Earle Brown
ジョン・ケージとロバート・ラウシェンバーグRobert Rauschenberg(1925-)、そしてマース・カニングハムMerce Cunningham(1919-)。戦後アメリカ芸術、ネオダダ、反芸術ムーヴメントのニューヨーク、ブラックマウンテンカレッジでの出会い。ケージの音楽には、必ずといっていいほどマースカニングハムのダンスが絡んでおり、それ以降の音楽家世代もそうである。またケージとの共同生活のパートナーでもある。そしてまた、ラウシェンバーグは舞台演出などにかかわり、コンバイン、コラージュ絵画などで芸術にダダ的揺さぶりをかけたその価値破壊性は、ケージの4分33秒に始まる音楽概念の革命性にシンクロする。
そのラウシェンバーグは次のように自らの芸術観を述べている
≪人びとが私のしていることは芸術ではないといっても、それによってわずらわされることはちっともありません。私自身、芸術をつくっているとは考えていません。私は私がしたいからこそ、また絵画が自分でやっていく上で最上の道だと分かったからこそ、私がすることをするのです。そして、大切なのはつねにそれをする契機です。一枚の絵画が完成すると、それはすでに私がしてしまったなにものかであり、私が今しているなにものでもないので、もはやそんなに興味のあるものではありません。わたしはこのゲームを無限に続けることができると思っています。それは『遊戯』なのです。――私がすることのすべてはそのなかにこの遊戯が含まれているように思います。大事なことは、私が絵を描くのはまさに絵画についての何かをあたらしく学ぶためであり、私が学ぶことのすべては、いつも結局二つか三つの絵画となるのです。≫(『花嫁と独身者たち・現代芸術五人の巨匠』カルヴィン・トムキンズ「美術出版社.1972」より)
≪私は絵画が単なる自分の個性の表現であってほしくない≫
彼の目指す絵画とは、≪芸術家の主観が支配的要素とならない絵画≫である。
こうした、非主体、無署名、脱人間主義の考えはケージのみならず戦後の非主流の革新を支配してきただろう。
ロバート・ラウシェンバーグRobert Rauschenberg(1925-)
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マースカニングハム
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