yuki-midorinomoriの日記

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なぜ、人は過ち誤謬を避けらないのか?≪人間この過ちやすきもの≫(ポール・リクール)。

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          「おお、人間の愚劣さ、お前は一生涯自分自身と一緒にくらしながら、
           しかもまだ、お前が一番多く所有しているもの、
           つまりお前の阿呆らしさを理解していないのを悟らないのか」

                  レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci


なぜ、人は過ち誤謬を避けらないのか?≪人間この過ちやすきもの≫(ポール・リクールPaul Ricoeur, 1913 - 2005)。何気なく、そう、思うことがあってという訳でもなく気まぐれに本棚から手に取りページを繰った。奥付をみると1978年となっている。珍しくこの書物は新刊本で買っている記憶があるので、この時期に出されたものだろう。(訳者あとがきによると、1960年に「意志の哲学」を総題にする体系的著作の一部として出されたものとある。著者畢生のこの大部の体系的な著作は今日すでに、訳されているそうだ)やはり今回、手に取るきっかけとなったと同じくその時も、この本のタイトルに惹かれてのことだったのだろう。なぜ人間は過つことが避けられないのか?それは端的に人は神ではないからだ。全知全能の神ではあり得ないからだと茶々が入りそうだ。しかしなぜ人は神たり得ないのか。それは神でないからだと堂々巡りとなる。さてそれはともかく問題は問題のまま捨て置かれ、当のこの本は積読のままであった。折にふし、気になる本であった。通読もせず、ブログに取り上げようとするのだからいい加減もはなはだしいことである。また限られた時間で気軽に述べ立てるようなたちのものでもない。重すぎる。しかし本質的な問題であることには変わりがない。たぶん読んで納得いく、また分かるというような問題でもないだろうからという都合のいい理屈から、取りあえずは、ちょこっと手がかりでもと考えることにしよう。人間の存在の仕方、ここにこの可謬性の淵源が求められる。存在論的に、そもそもが避けがたきこととして根拠付けられたところで、ではどうすりゃいいのかとなる。そうであるなら、ことは過ちをおかさないではなく、なぜなら過つことは避けがたきことであるからだ。その過ちをおかすことを存在論的に説明する、根拠付けるということなのだろう。≪そしてまた実際、私がただ神のことのみを思い、私を全く神に向けている間は、私は誤謬または虚偽の原因を、なんら私のうちに発見しないのである。しかしながら、やがて私自身にたちかえると、やはり私は無数の誤謬にさらされていることを経験する。そしてそれらの誤謬の原因を探求することによって、単に神、すなわちこの上なく完全な実有という現実的、積極的な観念のみではなく、またいわば無の、すなわち、あらゆる完全性からこの上なく離れているものの或る消極的な観念が、私の思惟に現れるのに私は気づく。そして私がいわば神と無との中間者であり、すなわち至高の実有と非存在とのいわば中間に置かれており、したがって、私が至高の実有によって創造されたものである限りにおいては、もちろん私のうちには私を欺きまたは誤謬に誘うようなものは何もないが、しかし、私がまたある仕方で無に、すなわち非存在にあずかっていると自分を考える限りにおいては、言いかえると、私自身が最高の実有なのではなく、欠くるところきわめて多いものである限りにおいては、私があやまつとしても怪しむにあたらないほどに、無数の誤謬にさらされていることに気づく。≫(デカルト「第四省察」)全的存在たり得ず、絶対的限界の死の無の前に有限としての生を生きている。まさに私とは中間者である。≪空海の「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く(うまれうまれうまれうまれてしょうのはじめにくらく)死に死に死に死んで死の終りに冥し(しにしにしにしんでしのおわりにくらし)」<わたしたちは生まれ生まれ生まれ生まれて、生のはじめがわからない、死に死に死に死んで、死のおわりをしらない>斯く哀しくも宙吊りの存在であり、無底にか細くよるべ無き存在である。≫(マイブログ<余韻の深さに来し方万象を聞く静謐な響き。モートン・フェルドマンの『TRIADIC MEMORIES』(1981)>より)また同様のことをパスカルは斯く云う≪わたしは、自分がどこから来たのかを知らないのと同様に、自分はどこへ行くのかも知らない。わたしはただ、自分がこの世を離れたら、未来永劫に虚無の中へおちこむか、それとも怒りに神のみ手のなかにおちこむかどちらかであることだけを知っている。しかし、この二つの条件のうちどちらの方に、わたしが永遠にふり当てられるはずなのかを、わたしは知らない。これが、わたしの状態なのだ。≫(『パンセ』)だが、この中間者とは文字通りの中間に位置するというのが問題なのではない。≪彼が中間的なのは、自己自身のうちにおいて、自己と自己との関係によってである。人間が中間的なのは彼が混合的だからであり、彼が混合的なのは、媒介を行なうからである。中間者的存在という人間の存在論的性格づけは、まさしくその実存するという行為が、自己の外でも自己自身のうちでも、現実のあらゆる様態と、あらゆる次元の間の媒介を行なう行為そのものであるということに存している。≫(ポール・リクール『人間・この過ちやすきもの』・以文社)そうなのだ、人間の人間たるゆえんの、関係に関係する人間存在のこの媒介(意識)構造がその過てる存在論的根拠なのだ。人は神たり得ない。神との対話には媒介を必要とする。関係する意識、意思を介在、媒介してしか神に働きかけることはできない。直接性からの離脱、媒介にこそ理性はその力、普遍を獲得した。その理性ゆえに人の過誤は、≪人間この過ちやすきもの≫としての人間とつねなる帯同にあるとしなければならない。要するに<媒介>・<関係>であった。この存在の仕方、こうでしか存在し得ない人間、その理性的存在のあり方ゆえであった………。



第16回 稲盛財団京都賞(2000年)受賞者 / 思想・芸術部門 / 哲学・思想
ポール・リクール (Paul Ricœur)
ポール・リクール (Paul Ricoeur, 1913 - 2005) は、20世紀フランスを代表する哲学者
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB