yuki-midorinomoriの日記

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「それはなんの役に立つんですか?」

内田樹(たつる)神戸女学院大学教授
イメージ 1「それはなんの役に立つんですか?」と教育現場に立つ内田樹(たつる)教授は、よく学生から訊ねられるらしい。その気持ちは分からないでもない。心のどこかで私なども呟いていただろうから。しかし、斯くまで<学ばない子供>が増え、学ぶことの意欲の低下はなはだしきを知るにつけ、鷹揚に受け流しておくわけにはいかないのではないだろうか。いわく≪「文学作品を読むことにどんな意味があるんですか?」「哲学を勉強すると、どんないいことがあるんですか?」・・・子供たちが「それはなんの役に立つんですか?」という問いを好んで口にするようになったのは、この20年くらいのことだろうか。≫(内田樹・日本経済「旅の途中」より)とのべている。この背景には消費社会が骨の髄まで、染み渡ってきたことが指摘されるだろう。誰やらの「金で買えないものはない」という言辞がそれを象徴する。俗に「金がなくてはどうもならん…」こうした考えを別に否定はしない。しかし、金以外で生きる人生選択など幾らでもあることもまた真実だ。人の生き様をなめてはいけない。美に生き、宗教に生き、思想に生きる。すべてありうるのだ。あっていいのだ。功利、合理からの余分、余計者、無用の者は在っていいのだ。科学万能の今日、いささか文化・社会科学への目は厳しい。科学技術万能、科学立国という、はたしてそうか。疑念なしとしない。横道に逸れそうでこれくらいにし、後日としよう。さて消費社会を貫く原理は≪自分に価値や有用性≫があるかどうかである。「それはなんの役に立つんですか?」というわけである。ところで≪進学に有利で、就職に有利で、配偶者の選択に有利で≫といったような、ごく少数の社会的勝者以外おおかたが無縁な、埒外の功利的動機付けの無意味さ、無価値を、大人に言われるまでもなく子供ながらそのような≪つまらない目的のために努力する気にはなれない≫と、わかっているのだ。学びの動機付けがそうした功利でしかないとすれば、ドロップした時点で≪学びが停止≫するのは当然で、きわめて合理的判断だ。しかしその帰結は?ところで内田樹教授は≪「学ぶことはなんの役に立つんですか?」という問いに対しては、「その問いそのものの無意味さをいつか君に気づかせてくれる役に立つだろう」と回答するのが「正解」である。もちろん、子どもはこの「正解」の意味を理解しない。けれども、子どもが理解できない言葉を告げることをためらったら、教育はもう成り立たない。≫≪学ぶことの意味を問われて答えることのできる教師は本来いないはずだ。学び終えてはじめてその意味が自身で理解できるのであり、そのことこそが学ぶことの動機づけになるものだからだ。子どもにも理解できるような動機付け(功利的な―引用者注)で子どもを学びに導くことはできない。しかし、現実には、子どもにも理解できる教育戦略(=ごく少数の社会的勝者以外おおかたが無縁な、埒外の功利的動機付け)が「学ばない子供」を構造的に生み出している。≫と斯く述べる。まさに卓見である。