yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

「花、無心にして蝶を招き、蝶、無心にして花を尋ぬ」まさに音自体となり、音ないを聞く≪眼の人ではなく、耳の人と言ってよい≫良寛。

イメージ 1≪人の五官は、視覚と聴覚とを主とする。見と聞とが、外界に対する交渉の方法であった。しかしそれは、単なる感覚の世界の問題ではない。「みる」とは、その本質において、神の姿を見ることであり、「きく」とは、神の声を聞くことであった。そのように、物の本質を見極める力を徳といい、また神の声を聞きうるものを聖という。徳は目に従い、聖は耳に従う文字である。≫(白川静「文字逍遥」・平凡社」)現代は、いやグーテンベルグの活字文字の発明以後、聞く・話す文化から見る文化へと大きく旋回した。それは神を見失い、聞く事を忘れる事態の到来と軌を一にする。姿かたちを見せぬ神は、音と臭いとともに感知せらる。姿かたちのない神は音とともに音ない・音つれる。≪神々との交通のしかたは、神に祈りを告げること、そして神がそれに応える声を耳聡く聞くことからはじまるのである。・・音こそが霊なるものの「訪れ」であった。・・神の姿は肉眼にみえるものではない。ただその「音なひ」を聞くことだけができた。「きく」ことは、「みる」こと以上に霊的な行為であった・・すでに姿のないものであるとすれば、声と臭とのほかに感知の方法はない。その声も臭もないものを、ただ聖者のみはこれを感知することができた。「聞く」とは、その声と臭とを覚知することをいう語である。≫(同上)≪姿もなく、所在も知られない神をよぶのには、馨香(けいこう)が最もよい方法である。神はそれを聞いて天降る。≫(同上)ここに、いわゆる<香を聞く>ということばの背景を神との交通に知ることとなる。映像視覚優位といわれる現代、もっとも神に近づきうる聞くことの聖性を詩に歌って示しているのは良寛だろうか。



静夜、草庵の裏(うち)
独り奏す沒絃(もつげん)の琴(きん)
調べは風雲に入りて絶え
声は流水に和して深し
洋々、渓谷に盈(み)ち
颯々(さつさつ)、山林を度(わた)る
耳聾の漢に非ざるよりは
誰か聞かん希声の音


遙夜(えんや・長夜)、草堂の裡
払拭す、龍唇の琴
調べは白雲を干(もと)めて高く
声は碧潭(へきたん)に徹して深し
洋々、萬壑(ばんがく)に盈(み)ち
颯々(さつさつ)、千林を度(わた)る
鐘子期(しょうしき)に非ざるよりは
箇中の音を辨じ(ききわける)難からん

※鐘子期(しょうしき)は春秋時代の人


蕭條たる三間の屋       
終日 人の観るなし
独り座す 閒窓の下       
唯聞く落葉の頻りなるを

      (蕭條・しょうじょう=ひっそりともの寂しいさま)
      

宇(庵)を結ぶ碧がんの下(もと)
薄言(いささかここ)に残生を養う
瀟灑(しょうしゃ)、膝を抱いて座す
遠山、暮鐘の声


冬夜長し 冬夜長し
冬夜悠々 何れの時か明けん
燈に焔なく 爐(ろ)に炭なし
只聞く 沈上 夜雨の声


寒爐(ろ)深く 炭を撥(か)き
孤灯 さらに明らかならず
寂寞(せきばく)として半夜を過ごし
ただ遠渓の声を聞く


イメージ 2秋夜 夜まさに長し
軽寒 わがしとねを侵す
已(すで)に耳順の歳に近し
誰か憐れむ幽独の身
雨歇(や)んで滴り 漸(ようや)く細く
虫啼いて 声愈(いよい)よ頻りなり
覚めて言(ここ)に寝ぬる能(あた)はず
枕を側(そばだ)てて清震(せいしん)に到る


人里はなれ、森閑とした庵にて耳澄まし全身音ともなり音の中へと入ってしまう、まさに音自体となり、音を聞く良寛。「花、無心にして蝶を招き、蝶、無心にして花を尋ぬ」「心、境、倶(とも)に忘ず」の良寛はまさしく≪眼の人ではなく、耳の人と言ってよい≫(唐木順三良寛筑摩書房