yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

どうして神は、天におわ(御座)すのか?

白川静
イメージ 1 【みそなわ・す【見そなはす】
[動サ四]《「みそこなわす」の音変化》「見る」の尊敬語。ごらんになる。 「磐戸(いはと)を細めに開け―・す」〈神代紀・上〉】

どうして、神は天、上に方位を持つのか?。神は天より降りてくるものという。地下より顕るとは聞いたことがない。神棚は上に祀るものである。床に置かれた神棚には威光も何もない。ひとは文字通り暗き闇に音なう神の声を聞く。しかし神は天におわします。地下には≪仏教では、冥界(めいかい)の王、地獄の王として、人間の死後に善悪を裁く者とされる≫閻魔である。なぜか?きのうは姿かたちの見えぬ神の声を「聞く」であった。しからば、きょう今回は五官の一つ「見る」ということになる。≪人が神を見ようとするのは、神がつねに人をみそなわしていると信じるからである。神は姿を見せないが、その識られざる神は、つねに下界を照臨したもうている。また時あって、人の世にも姿をあらわすのである。臨とは上から見ることをいう。神を望むときは天を仰ぎ、その目は上に向かう。神が人に臨むとき、その目は下界に向かう。人が水鑑に姿を写すときもその形であるから、水鑑のことを古くは監といった。のちの鑑の初文である。監にはまた覧の声があるが、上天より下方をみることを覧という。高貴の人の行為には御覧といった。上より見ることは、また支配すること(国見とはまさにこのことの同定にほかならない―引用者)であり、統轄することであるから、攬、纜の字はみな覧に従う。本来は、神がその秩序を正すことをいう字である。臨と覧とは双声。すなわち同じ頭音の字である。監察という語も、上より下に対していう語である。「みる」という行為は、もと神と人との間に成立するものであった。≫(白川静「文字逍遥」平凡社)神との交通にひとの五官は啓かれる。