yuki-midorinomoriの日記

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人間観念の極端の性向を見る、切り立つ断崖に建つ「日本一危ない国宝鑑賞」三仏寺投入堂。

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    shakuhachi collaboration - kinohachi guutai

      き乃はち、オフィシャルサイト 尺八 法螺貝 尺八・現代音楽、マイブログ
    

建築家、藤森照信は、社寺仏閣・建造物の第一位に三仏寺投入堂をあげ、それを≪力強さと野性味に支えられた優美≫と評し賛している。また『古寺巡礼』で有名な写真家、土門拳も『古寺を訪ねて東へ西へ』のなかで≪「わたしは日本第一の建築は?と問われたら、 三仏寺投入堂をあげるに躊躇しないであろう。」≫と述べているそうである。其の風情に何か厳しく神仏的なものの迫るものがあるのだろうか。山岳信仰の祖の役行者(えんのぎょうじゃ)が切り立つ断崖の下で作ってホイと洞へ投げ入れたという説話から「投入堂」と称されている由。まさしく、かれら修験道者の修行にふさわしいというべきか、その峻厳さで人を近づけない、およそ信じられない山中の絶壁の箇所にそれは建てられている。≪日本古来の自然信仰の一つである山岳信仰に、外来の仏教が重なって≫うまれた修験道の生誕以来≪聖なる山に取り付くようにして懸造(かけづくり)とか懸崖造(けんがいづくり)と呼ばれる特異な建築様式が誕生するが、其の代表作≫だそうである。そういえば祠などが崖や山肌にへばりつくようにして在るのを見かけることがあった。ところで件の建築家は許可の下≪よじ登り、濡れ縁に座ってあたりをながめた時、「アア、この山には神さまがいる」と思った。≫そうである。そうした険しい場所にある「投入堂」は「日本一危ない国宝鑑賞」であるとの由。さてこの三仏寺投入堂を、今日のブログに載せようと思ったのは、この建物が以上のような印象深い国宝の建造物であることゆえではなく、次の新聞記事を読んでのことだった。山下裕ニ明治学院大教授の≪日本美術のアヴァンギャルド・十選≫に、自身の四半世紀の日本美術史の研究の中で≪これこそは本当にすごいと思ったものがいくつかあるが、この「投入堂」がいちばんじゃないか。・・八百年以上前。クレーンなどない時代に、どうしてこんな建築ができたのか。・・一体どうやって、材木を運んだのか。修験道は極端だ、ということは、つまり「アヴァンギャルド」。いまでも死にそうな修行をしている人がいる。でも、極端になると、美しいものを虚心坦懐に見つめることができたりする。面取りをしたがゆえに、いかにも優美な、細い、投入堂を支える支柱を見ながら、滑り落ちそうな修験者たちは、恍惚としたのかもしれない。≫(日本経済新聞)。まさにそうなのだ。<極端>、人為の及ばぬところ、人跡未踏これであった。宗教、おしなべて観念は極端をその性向とする。これは間違いのないことだ。放っておけば必ず難解・抽象へ行き着く。荒行にしても神仏に近づくためであり、悟達のためであった。悟りはそうでなくては開けぬものとされる。わが身を苛み、傷つける、そこに恍惚、法悦は死と背中合わせにやってくる。死を賭する荒行、自己滅却の果てに神の御姿は、見ることをゆるされる。脱俗し、生を超脱する宗教のエロス、死への衝動 タナトス(thanatos)。支柱一本一本断崖を引きずり揚げるのは、死と隣り合わせの<行・ギョウ>であった。滑落は死であり、しかし悲劇ではない。神仏の召喚である。ひとの観念は放っておけば極端を志向する。思想が難解になるのが必定なのもその性向による。天に雲突く神木観念。巨大な、いわ‐くら【岩座・磐座】観念。人為の及ばぬものへの神仏信仰。神仏の威力を見せ付けるに十分な断崖の三仏寺投入堂であった。崖から崩れ落ちるのも、滑落するのも神仏の試しであり、そのなせる業である。




★―例えば、暑いとき、「暑いな」と思う。風が吹いたりしている時、言葉にしないで、ふと何かに触れたと思えることがある。



▲―例えば「無を感じる」という形でね。



★―自然とはむしろ、その「無」に近い。本当の自然は、むしろ知覚の対象になっていないわけです。だからこそ、僕は、「忘れもの」とか「気配」を重視した。しかし、仏教全体とは言わないけれど、密教に感じているのはそれではない。密教は人工性への努力のようにも思える。密教大自然をその一部において一挙に獲得するでしょう。部分から全体を導く。しかし、日常、そんな密教などに携わらない人達が感じていて、言葉になり切らないもの、つまり密教の言う不立文字は、密教にはなくて、巷にあるのではないか。衆生の持っているものが自然で覚者の持っているものが、人工的自然なのです。「人工」という言葉が誤解を招きやすいので、これを「抽象自然」と言っておきます。



▲―意味は大体わかりました。続けてください。



★―八百屋の親爺さんが、論理ではなくて、風が吹く体験から得たものこそが素晴らしいと僕は思っている。そこには「行」はない。体験のみです。これに対して密教は、最高の論理への到達を目指す。鮮明で最高の論理を使っている。けれども、この両者の行き着く果ては同じでしょう。僕はただ、そこに「自然」の安売りが語られすぎていることに非二十世紀的なものを感じている。



      ・・・・・



▲―人間は目的を持っているのか、いないのか。それから、いわゆる目的は方向を持っているのか。生きる目的はあるのか。その目的への途中で、人工化がおこる。そういうものがあるのでしょうか。



★―ないですね。



▲―無目的で……。



★―そうです。目的があるなら、当然、自覚はないでしょう。「先の先」ができていれば自覚は不必要です。だから、感覚そのものが自然であって、目的はない。つまり、人工とは、閉じるものである。「過未無体」と華厳で言います。それは、過去と未来のない境地という意味です。そして、過去も未来もある人工的な論理を駆使して、「過未無体」という寂浄の境地に突進する。だから、論理を一度使ってすぐ消費して無くすという、この抽象の極地がヒンドゥイズムやブッディズムではないですか。



ことさらに<行>を行なうことなく、無は気配として、そこはかとなくおとずれてくる。万人にそれはあちらからそこにやってくる。Here and There そのままからこのままへ。<信>としてやってくる。



まさに≪言葉になり切らないもの、つまり密教の言う不立文字は、密教にはなくて、巷にあるのではないか。衆生の持っているものが自然で覚者の持っているものが、人工的自然なのです。「人工」という言葉が誤解を招きやすいので、これを「抽象自然」と言っておきます。≫




    ★――松岡正剛
    ▲――津島秀彦



津島秀彦(松岡正剛共著『二十一世紀精神』工作舎・1975)