yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

人の脳波を巨大なアナログ・シンセサイザーに入れ音響合成して作られたノイズサウンド、サイボーグノイズマシン・ピエール・アンリ『Mise en Musique du Corticalart』(1971)。

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Pierre Henry - Mise en Musique du Corticalart de Roger Lafosse (1971)

            

ピエール・アンリ       (右)「疾走する筋肉の渦巻き状の拡がり」1913U・ボッチョーニ
イメージ 2 イメージ 3もう、この種のノイズミュージックを聴くとたまらないですねといったところである。何の整除もなく騒雑音で徹底的にアートフィッシャルを突っ走るといった風情である。もうここまで来るとその根性に感心するばかりである。
その昔、産業社会・技術を讃した/ italian futurism / イタリアの未来派の芸術宣言『……うなりをあげる自動車は、《サモトラケのニケ》よりも美しい。……』(未来派宣言(1909年))を思いおこす。
そのメンバーの一人で騒音創作楽器をこしらえもしたルイジ・ルッソロは1913年「雑音芸術・未来派宣言」を発表する。
そこで彼はこう主張している。≪「複雑で不協和な響きへと次第に向かいつつあるのが、現代の音楽の特徴である。その結果、音楽はやがてノイズへと行き着くだろう。ノイズは音色の豊かさをもたらしてくれる。ベートーヴェンワーグナーが私たちの心を動かしてきたように、今度はエンジンの出すノイズや群集のざわめきが私たちを楽しませてくれるだろう」 
さらに彼はこうも言っています。「・・・繊細な耳があれば、ノイズがどれだけ多彩なものか分かるはずだ。現代の都市にあふれる機械や電気のノイズを聞き分けることに、私たちは喜びを感じることができるのだ・・・」≫。(上記ネット記事より)
このように、ここで思い出すのは松岡正剛の以下のような雑音に関する考察の一行であった。
≪ラジオから―――ザーとたゅたうラジオ・ノイズに長いこと聞き入っていると、いつしか自分もノイズと一体になってしまう。さらに長いことノイズのただ中に身をさらしていると、ノイズ総体がことばを放ち始める。なつかしい天上音楽のようなこともある。ノイズが一次元あがって「このまま音」から「そのまま音」へ変わるのか。≫まさに至言、放下であり、放心の美である。
ノイズの洪水を前に、自我、私は解体する。このピエール・アンリのアルバム『Mise en Musique du Corticalart』(1971)は,そうした機械と化したピエールアンリの独擅の凄まじいまでのテクノノイズサウンドの世界を聴くことに放心の快感をおぼえる事だろう。
ネットでの、売らんかなの商業的な宣伝文ということイメージ 4を割り引いても≪収録されている音源は、脳波電導システムというものを用いて、人の脳波を巨大なアナログ・シンセサイザーに入れ、音響合成して作られた模様。図太いビープ電子音により構築される音響世界は圧巻。荒れた質感等も素晴らしい!!傑作!!≫というコメントに肯くことは、先ず間違いはないだろうと思われる。
拙ブログでの≪。暴虐のエロスすさまじくカオス的ノイズに快感するピエール・アンリの 『CORTICAL ARTⅢ』(1973)≫をもあわせて読み、その凄まじいまでのアーティフィッシャルなパフォーマンスを堪能していただきたいものである

                                        未来派の5人
                         左からパリのルッソロ、カッラ、マリネッティ
                          ボッチョーニ、セヴェリーニ  1912年頃



Luigi Russolo - Macchina Tipografica