yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

足かけ29年、6762回の連載をもって終了。大岡 信『折々のうた』第9集(岩波新書)より。

イメージ 1べつにどの歌でもよかった。所在無げに、まるでコマ送りの動く漫画遊びよろしくパラパラとページを繰っていて、たまたま目に留まった歌。先日、連載の終了≪2007年3月31日、6762回目で終了≫(WIKIPEDIA)で話題になった大岡 信の『折々のうた』第9集(岩波新書)である。この『折々のうた』は≪詩人の大岡信さん(76)による本紙1面の連載「折々のうた」が31日、最終回を迎える。朝日新聞創刊100周年企画として始まったのが、1979年1月25日。古今の詩歌を縦横に取り上げ、足かけ29年に及んだ長期連載≫(「asahi. com」より)のものよりつくられたもの。くだくだ書くまでもなく、詩歌の森の散策にもってこいの本である。2、3目に留まった、そう、たんに目に留まっただけだとしておこう。それらをピックアップして、今日は擱きたいと思う。

「夕さればひとりぽつちの杉の樹に日はえんえんと燃えてけるかも」
                                                (北原白秋

 (深刻な困苦の中での歌。何かゴッホの杉のようでもあるのがその直面している事態を内面ともども表わしているかのごとくである。)



「暑き日の降り掛け雨は南瓜(とうなす)の花にたまりてこぼれざる程」
                                                 (長塚 節)  
 (俳句的な一瞬の鮮烈を感じさせる。上の、白秋にしても、この長塚 節もまじめに読んでみなくちゃと思った。)



「哀しみは身より離れず人の世の愛あるところ添ひて潜(ひそ)める」
                                            (窪田空穂

 ≪愛と悲哀が不可分であるという事についての、底光りする卓見が盛られた歌。≫(大岡 信)この一行ですべてを語っている。「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄(なわ)の如(ごと)し」などとと言われるより、歌で詠まれる方が心に深く染入るように思うけれど、どうでしょうか。