yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

この記事は4・22のものではありません。今日の稿は武満徹『TASHI plays TAKEMITSU』で武満書庫内です。この稿は3・28のものです。誤謬と無知とは宿業的なものである。――F・ニーチェ

北京へ向けてのU22サッカー二次予選のシリア戦快勝。順当なところ負けはしまいと思いつつも試合中継があると、ついつい観戦してしまう。それも仕事もそこそこに引きあげてであるから難儀なことではある。今回はホームということもあってか、フォワードの平山、MFの水野、家永のスピーディな動きなど見ていると、A代表(日本代表)より見事な、流れるような連動が随所でみられ小気味よかった印象がした。ともかく、この後むかえるであろう最終予選は、強豪ぞろいの各組で1位のみが本大会(オリンピック)出場という難しさ(ワールドカップより出場枠が少ない)であり、痺れるような試合の連続となりそうだが、頑張ってほしいものだ。とここまできたところで、今日は、いつもながらであるけれど、本からの抜書き引用で埋めることとする。いつまで経っても青っぽいことだけれど、哲学・思想的字句などが目に留まると、気になり捨て置くことができない。<青っぽさ>は失わずにもっておこうとは思っているけれど。根がヒネクレ者だから、つねづね、世知長けて世渡り上手は私の好むところではない。ところで、やおら紐解き見開いたページに次の字句があった。イメージ 1≪誤謬と無知とは宿業的なものである。――真理は現に存在しており、無知と誤謬は終わったという主張は、ありうるうちの最大の誘惑の一つである。この主張が信ぜられるとすれば、そのことで、吟味、探求、慎重、実験への意志は麻痺してしまう。この意志はそれ自身冒涜的なもの、つまり真理に対する懐疑とみなされうるからである・・・したがって「真理」は誤謬と無知とにもまして宿業的なものである。というのは、解明や認識にたずさわる力をそぐからである。≫(フリードリヒ・ニーチェ「権力への意志」原佑訳・河出書房)以前拙ブログで≪人間この過ちやすきもの≫(ポール・リクールPaul Ricoeur, 1913 - 2005)を取り上げた。なぜひとは過つのか?「真理」であったはずのことが誤謬とせらることの繰り返し、そうした人の歴史。さて「真理」とはなにか?

ネットを覗いていたら名言集に次の言葉があった。≪考えてみると世間の大部分の人は悪くなることを奨励しているように思う。悪くならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊ちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。≫(夏目漱石)