yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

言わずもがなの流麗さ際立つピアニズム。渋く輝く洗練されたロマンティシズム。ブラームス『ピアノ小品集Vol.1』NAXOS廉価盤。

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Rubinstein Plays Brahms Capriccio Op.76 No. 2 1973

            

ヨハネス・ブラームスJohannes Brahms
イメージ 2連休ということもあり、先日に引き続きタワーレコードへと足を運ぶ。きょうびのネット時代、アマゾンなどネット通販を利用して検索購入した方が手間いらずでいいのだろうけれど、いまだネットを利用して物を買ったことがない。本屋での本の背中を見ての楽しみと同様、音盤も一覧しての意外なものとの発見出合いも楽しいもので、これは電子辞書と従来の紙の辞書との違いでよく言われる、一覧性においてアナログ辞書のほうが勝るということと同様のことだろうか。当の探している字句以外のものに出くわし勉強になることがある。こうした思わぬ出会いでの知の拡がりこそが<アナログ知>の良さでもあるのだろう。デジタルビットとビットの隙間にこそ<神>を生み出す意識、アナログ知の素地があるということなのだろう。果てしのないON-OFFのデジタルビットの繰り返しとは単なる循環でしかない。それを<無限>と括れるのはアナログ知だ。無限を抱懐する神とはビットの果て、彼方からやってくる。それゆえ≪われわれはたれでも「神への漸近線」の上におかれている。≫(稲垣足穂)。≪神は見えません。見えるとしたら、それはヴィジョンの中です。神はきっと光とか信号とか情報のようなものです。≫(松岡正剛『花鳥風月の科学』(淡交社)というわけである。≪ヤニス・クセナキス『Polla Ta Dhina for Childen’s Chorus and Orchestra』(1962)ほか≫のマイブログより――以下引用。

【   ≪あり得ぬことをあり得ぬと解っていれば
         語れぬものを語ろうとはしない
             語れぬものを語れぬと解っていれば
                 知るべきことを知ったのである≫(津島秀彦)
             
              (松岡正剛+津島秀彦『二十一世紀精神』・工作舎より)

知ることができないものがある、ということを知ってしまった複雑系の現代、ヒトはより一層薄明の境域に揺らぎ不安と共に在る。知の拡大精緻、部分化はますますの複雑を呼び寄せ、全体の茫洋としたあてどのなさを招きよせる。部分をいくら寄せ集めても全体とはならない不思議さ。けっして全体とならない部分と部分の隙間にこそその得体の知れなさとして神を招じ入れもする。そこでは絶対の飛躍が要求されるのだ。養老孟司が生命のかけがえの無さ、その全体性をいうとき、ヒトは一匹のハエ、蚊ですら、その一度失われた生命を復元することはできないといっていたと記憶する。生命という全体は要素部分・器官をつなげあわしても生命=全体とは決してならない。点の集合が決して直線とならないように、そこにも飛躍を必要とする。連続として、全体として存在する自然は分節、飛び飛びの点の集合として近似的にしかヒトには認識再現できない。ここにも飛躍がある。危うさがある。不確かさが横たわる。つねなる絶対根拠の不確かさがある。それゆえ空隙埋めるものを別の系からメタとして借りてこざるをえない。したがって、その系での無矛盾性はトートーロジーに帰結する。≪ものを見るとはどういうことであろうか。われわれの目に入ってくる対象物とは、じつは点の集合であり、それを思考に置き換えた場合、囲りがぼやけている。したがってぼやけてしまったものを、もう一度とり出して描くということはできない。人間は決して自然を再現できない。≫(津島秀彦)(『二十一世紀精神』より)。≪物質の存在とはそれ自身において自立するすべはなく、全存在の成立と同時に成立するということであり、そこには幾何学が物質を決定するのではなく、物質が幾何学を決定するような論理が作用している。≫≪ヒトが視ようと視まいと、ものはある。存在とはせいぜい「存在の概念」でしかない。≫論理と存在。自分自身を自分自身で証明することは出来ない。曖昧さとはそれゆえ現存在、人間にとって本源である。他者の介在を<無>を本質としてもつ。≪自然に論理学を読む方法は軌道論的である。神に罠をかけるのだ≫斯く私たちヒトは自然と対峙しているのだ。≪自然があり、混沌があり、ついで構造があり、要素が生まれ、擬構造が輩出してふたたび構造があり、やがて混沌さえ構造となって、やはり自然に落ち着く。≫(以上引用文すべて松岡正剛より)】悠久なる本源としての自然。

何を脱線しているのだろう。ショップに足を運び品定めをするのもいいものだ。余禄があると言いたいだけであった。ところで、狙いはいつものことながら通勤途上車中NHK・FMから流されていて、いたく感心した曲の音源であった。ブルックナーのピアノ曲!。こんなのがあったのかといった感想であった。ネットで調べたところ白神 典子というピアニストのものだった。こんなに美しい曲をブルックナーが書いていたとは。いたってシンプルで、やさしさに満ちた美しい曲。しかし店頭には見当たらなかった。またの機会とし、結局以前より探していた超アヴァンギャルドデヴィッド・チュードア「レイン・フォレスト」1枚のみのショッピングに終わった。折角だということでついでに中古レコードショップを覗く。そこでやっと本題のCD、ブラームスの『ピアノ小品集Vol.1』NAXOSの廉価盤1枚525円のもの2枚を買った。こちらは、いままで真面目にブラームスを聞いてこなかったということでの選択だった。当たり前で何をか謂わんやというところだろうけれど、渋く輝く洗練されたロマンティシズム。流麗さの際立つピアニズム。やはりベートーベンでなくシューマンだ、と謂うところであった。収録作品は「Piano Pieces Op.76」「Two Rhapsodies Op.79」「Fantasies Op116」。なんと「Rhapsodies Op.79」No.1。これはどこかで聴いた曲だと思いきや、子どものピアノ発表会で弾いていた曲だった。ラプソディーというからに華美でいくぶんスケールの大きな曲。あれ以来我が家ではピアノはコトリとも鳴らず、飾り台となり埃をかぶるのみとなった。そうしたことを思いつつのヨハネス・ブラームスのピアノ作品鑑賞だった。