yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

政治と芸術。背反の苦悩。近代日本西洋画創生の、俗をも飲み込み踏台に徹せんとした<公>にも生きた黒田清輝の心意気を感じる作品。

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            「智・感・情」(1899)の連作3作品のうちの「感」

黒田清輝 & ラヴェル ピアノ協奏曲

            

黒田 清輝
イメージ 2黒田 清輝(くろだ せいき、1866年(慶応2年) - 1924年大正13年))。日本の近代西洋絵画創成期の土台を築き上げた画家であり、政治家(子爵・貴族院議員)。≪東京美術学校の西洋画科の発足に際して教員となり、以後の日本洋画の動向を決定付けた。1909年には洋画家として最初の帝室技芸員に選ばれ、また帝国美術院院長などを歴任した。1920年には貴族院議員に就任している。≫(WIKIPEDIA)維新の功績あった元勲士族の跡取り(養子)という恵まれた身分での9年に及ぶ私費でのフランス留学。とはいえそれは、明治・近代国家建設のための法律を修学する留学のはずだった。明治国家建設の礎となる家の期待・使命を裏切り画家となった背反の苦悩は、しかし、政治の生臭さを生きつつ近代日本西洋画の土台を築く活動を使命として酷しくも支えることとなっただろう。泥をかぶり手を汚す人物を必要としたのだ。役回りということだろうか。しかし一部世評での≪絵も描く政治家≫ではなかった。≪「私はまず踏み台であります、この踏み台がむやみにやじ馬に踏みつけられるやら、蹴られるやらで困難しているわけであイメージ 3ります」(「絵画の将来」)≫(「日本経済新聞」)。このブログページに貼り付けた作品はいわゆる教科書的な無難な評価を得ている作品ではない。すべて、背反の苦悩と政治と芸術、近代日本西洋画創生の、俗をも飲み込んだ、踏み台に徹せんとした心意気のあらわれている作品のように思われる。とりわけ日本人画家の、≪日本女性の裸体を描いた最初の西洋画≫といわれている「智・感・情」(1899)の連作3作品のうちの「感」。この凛とした神々しいいまでの気品。それに挑戦的な色使い、色彩感の表出で新動向(=光)を主張してみごとに印象つよい「舞妓」(1893)。そして1924年58歳で没する黒田清輝の絶筆とされている「梅林」(1924)は、まさに幸であったか、はたまた背反に苦悩するうちに閉じんとする生に静かに渦まく情念を見せ付けているようでもある。まさに≪二物イメージ 4を与えられた人の困惑の叫び≫(「日本経済新聞」)のようである。≪「黒田はフォービズムを知っていたが、模倣したのではない。絶筆と思うからそうみえるのかもしれないが、(立場を離れ)自分の中のものを気兼ねなく出したらこうなったのでしょう」(高階秀爾)≫(同上)さてところで、黒田清輝黒田記念館は「美術の奨励事業のために」という遺志で建設され週二日無料開放され作品が公開されているということである。画家である以上に歴史の礎となる公民としての意志のあらわれであるのだろう。公としても十全に生きた画家らしい業績といったらいいのだろうか。是非クリックして、公開されているデジタルアーカイブスの充実振りに驚きつつ、近代日本西洋画創生の作品群を鑑賞したいものです。


           「舞妓」(1893)