yuki-midorinomoriの日記

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憂鬱な呟きとこみ上げる哀しみ小出楢重『枯木のある風景』(1930)

『枯木のある風景』(1930)
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イメージ 2先日、つれあいが図書館から借りてきた本を、拾い読みしていたところ、いろいろ興味ある図版があるなかで、ひとつの図版にいたく感銘を受けた。何ともいえず哀しいのであった。大げさに言えば、締め付けられるような哀しみであった。その作品とは絶筆とされている『枯木のある風景』(1930)であり、作家は小出楢重(こいで ならしげ、1887 - 1931)であった。洋画創成期の、しかも関西(大阪)出身の優れた洋画家として知識は人並みにありはした。けれども代表作らしき図版を図書館などでの美術書で鑑ていても、ほとんどとりたてての感懐はなかったといってもいい。なんだかもっちゃりし泥臭い鬱陶しい感じの絵で、どこがいいのかな?との印象だった。ともかくその<泥臭さともっちゃり感>でいい印象ではなかったのだった。しかし先ほどの図版『枯木のある風景』が、そうしたマイナスの印象を一変してしまったといってもいい。グーグルネットの画像検索で再度鑑返して見ると、それらの画像から何とも哀しいトーンが浮かび上がってくるのだった。現・東京芸大を出て、フランスにも留学、しかし半年ばかりで学ぶものなしと帰国、≪日本人による日本独自の≫日本土着の洋画の確立を目指すも先天的な心臓疾患ゆえ43歳にての早い死を迎える。なんでも東の岸田劉生にはずいぶんと対抗心のあったよし。そこらあたりはイメージ 3画業プロパーでは興味のあるところかもしれないが。さて、このように西洋と日本という政治文化移入近代化の構図はつねに言われていることだけれど、この浪速のエリート小出楢重もご多分にもれずといっていいのか、ハイカラと土民が同居する生活だったようだ。こうした立ち位置にあるインテリのつねとして愛憎いりまじった生を強いられるのを歴史で見聞きしてきたことだろう。この今日のブログ記事に貼り付けた、画壇に認められず失意のうちにあった時期に描かれたという『Nの家族』(1919)のこの哀しい沈鬱。留学後のハイカラ趣味、それをなんだかすっと呆けて自虐的にさえみせる風な『帽子をかぶった自画像』(1924)。こうした絵も先の印象深い絶筆『枯木のある風景』(1930)の哀しみを思うと、なんだか愛しく、違った印象で見えてくる。死ぬ前に≪「どこぞ行きたい、どこぞ行きたい」といっておりましてね。「家を一歩でたって、同じところに同じ松ノ木が立って、それもまた同じ枝ぶりをしてるがな」≫と言っていたそうである。そうした呻きともつかぬ憂鬱な呟きが、哀しみとなって聞こえてきそうな感動の絵であった。

『帽子をかぶった自画像』(1924)イメージ 4