yuki-midorinomoriの日記

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アルフレット・シュニトケの「チェロ協奏曲第1番」(1985-1986)。保守的な様式に通奏する沈鬱な翳りをもつ響きに、九死に一生の透徹した<死>への、翻って<生>への眼差しを聴く。

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Alfred Schnittke: Concerto per violoncello e orchestra n.1 (1986)

            

イメージ 2今日もまた古典曲と現代曲がカップリングされたアルバム。それもロベルト・シューマンRobert Alexander Schumann(1810 - 1856)と、最近しばしば登場する旧ソ連出身の現代の作曲家アルフレット・シュニトケAlfred Garyevich Schnittke(1934 - 1998 ハンブルク)のチェロコンチェルトが収められたもので、二つの作品の演奏者はシュニトケにより作品を献呈された、これまた旧ソ連出身の女性チェリストナタリー・グートマンNatalia Grigorievna Gutman(1942 カザン - )。さてそのシュニトケの「チェロ協奏曲第1番」(1985-1986)。これはいささか保守的な様式だなとの印象は拭いがたいものだった。それが先ずいっとう最初に抱いた印象だった。しかし、最後まで引っ張ってゆく類いまれな筆力は、そうした印象にもかかわらず、この作品の魅力ともなっているのだった。幾度か聴きかえせば聴くほどに味わい深く、印象に残る作品だった。先の印象のごとく、総じて古典様式への回帰が顕著な音つくりといえるだろうか。そんななか曲に通底する沈鬱な翳りをもつ響きにはこの作品の制作途上に≪脳血管発作に倒れ、昏睡に陥った。たびたび医師に死を宣告されながらも、奇跡的に回復して、作曲活動を続けた。≫(WIKIPEDIA)という九死に一生を得るという事態への透徹した<死>への、翻って<生>への眼差しがメメントモリとして響きわたっていると思わせる。かく思わすほどにチェロの響きには哀しみが支配し覆っているのだ。もちろん祈りも響きわたる。それらは終楽章などとりわけその感をつよくする。感銘深い終わりを聴くこととなる。第3楽章などにショスタコーヴィチの響きが聴こえてくるのはご愛嬌か。(話が変わるけれど、先日のNHK・FMで流れていたマイケル・ティルソン・トーマス指揮のサンフランシスコ交響楽団によるショスタコーヴィチの「交響曲 第5番 ニ短調 作品47」には感激した。帰宅途上の車中での僅か15分ばかりの後半終楽章のみだったけれど、私の感動同様割れんばかりの拍手と怒涛の歓呼、歓声で会場は満たされていた。まったく久しぶりのショスタコーヴィチの5番の名演だった。)さて、カップリングされている片やの古典曲、シューマン「チェロ協奏曲イ短調作品129」(1850)。この曲に対する女性チェリストのナタリー・グートマンの演奏が私には聴き慣れないもので一瞬?が点滅した。ひじょうにゆったりしたテンポで始まりそのまま突ききっているのだった。情緒の過剰を抑制している演奏スタイルと了解できたのは、目当てイメージ 3シュニトケを聴きこむためついでに幾度か聴いている間に合点できたのだった。殆んどがロマン的情緒性のつよい演奏が支配しているなか、厳格でもない、一聴凡庸にも聴こえるのだけれど情緒性に付きまとう派手さを抑制したこれも立派な演奏解釈だと思えるようになった。それは対比的に<演奏スタイルが情熱的すぎるとの批判>(WIKIPEDIA)がしばしばと聞き及ぶ夭折?の天才女性チェリストジャクリーヌ・デュ・プレJacqueline du Pré(1945 - 1987)の演奏スタイルとはまさに対極にあるようだ。



Alfred Schnittke, Sonata for Cello and Piano: Part I