yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

『桐の葉もふみ分けがたくなりにけり必ず人を待つとならねど』(式子内親王)。アア何たる誤読。しかしこれで良し。

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                  徳岡神泉「仔鹿」』(1961)


きょう、なにげなく聴くでもなく聴いていたラジオから流れていた歌に感動した。ということですぐにネット検索した。まさにネット時代の便利なところである。作者の「式子内親王」と、「新古今」、「ふみわけがたく」と憶えていたキーワードのみで辿り着いたその歌とは以下のものであった。

     『桐の葉もふみ分けがたくなりにけり必ず人を待つとならねど』 (式子内親王

一瞬聞いたとうざは、≪何もし、あの方が来ていただいたら、桐の落ち葉も降り積もって歩き難くなったと思ってしまいました。必ずしもその人を待っている訳ではないのですが。≫(ネットぺージでの意訳)といったような意味の恋の歌としてではなく、たんに不特定の人、そのひとびとの訪れを待つ訳でもない木々が、ふみわけがたくなるほどに落葉しているよ、といった自然詠として、自然の粛粛とした営みへの眼差しとして全く一人勝手な解釈をして感激したのだった。誤読?ゆえの感動といえよう。しかし私にはこのような、その時感じたままの誤った?解釈のほうが良いように思った。たんなる恋の歌であれば、これは、はなはだ面白くない歌でしかない。たぶん、「桐の葉」を紅葉(もみじ)と一瞬の間に変えて印象してしまったのだろう。訪れる人もなく、森閑とした静寂のなか、いちめんに「ふみわけがたく」なるほどに落葉しているイメージが作り上げられたのだった。訪れる人を待つわけでもなく木々はおのずから落葉してゆくのだよ。いわば芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」であり、侘しさ、寂しさであった。アア何たる誤読。しかし何度も言う。先のような恋の歌であったならさほどの感動もないのが正直なところだ。それに、たぶん私には、高浜虚子

    「 桐 一 葉 日 当 た り な が ら 落 ち に け り 」 (高浜虚子
の句の鮮烈が交感残照し、こうした誤読を誘ったのだとも思われる。「桐一葉」の落葉がもたらした一瞬の陽のきらめきに、自然の深奥を掠め取った虚子の一閃の自然観照の凄さと自然存在の開示力に驚いた名句が交錯したのだろう。なんでも、「桐一葉」の季語は秋であり、中国の古典、『淮南子(えなんじ)』の「一葉落ツルヲ見テ、歳ノ将ニ暮レナントスルヲ知ル」(物のきざしで大勢を察知すべき)転じて「一葉落ちて天下の秋を知る」(文録)という言葉からきたそうだ。天下、あるいは自然などの盛衰を含意してもいる言葉なのだろう。恋よりもこちらのほうが「桐一葉」にはふさわしい。ということであえて誤読の感動を良しとしよう。こちらのほうが自然観照として宇宙的で、時空の広がりを持ち、自然をココロとしているように思えるからだ。

      風は古澗(こかん)を過ぎて秋声起こり
      日は幽篁(ゆうこう)に落ちて 瞑色(めいしょく)来る      (夏目漱石

                   古澗=古い歴史をもつ川。幽篁=奥深い竹やぶ