yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

金子みすゞ。今にも壊れそうで繊細な慈しみの心。聖なる慈悲の目で見えない世界を見、優しく清らかなことばを遺していった夭折の天才童謡詩人。

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             ―― 今夜の月のように 私の心も静かです ――
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                           尋常小学校時代 前列右端

泥のなかから蓮が咲く。 それをするのは蓮ぢゃない。
1930年26歳にて自ら命を絶った生まれながらにしての天才童謡詩人、金子みすゞ(1903(明治36年)- 1930(昭和5年))。詳しいことは金子みすゞ記念館サイトを覗いていただくとして、下に幾編かの詩を引用して共に鑑賞したく思う。まさに生まれながらのと形容したくなる、今にも壊れそうなほどの優しく繊細な心を歌った童謡詩のかずかず。以前投稿記事に引用したヘルマン・ヘッセの詩に以下のことばがあった。


        子供よ、おまえはもう逝ってしまった
        そして少しの人生も知りはしなかった
        それなのに我々老いた者たちは
        なおも衰弱した歳月を生きている

          ・・・・・

        子供よ、やがて我々の目が閉じられるとき
        おそらく、我々は思うことだろう
        子供よ、この世について我々の目は
        おまえの目ほど多くを見はしなかったのだと

               幼い子供の死に寄せて(H・ヘッセ)


そうなのだ、金子みすゞはその聖なる慈悲の目で世界を見、優しく清らかなことばを遺して、さっさと幕を下ろして、いや幼い愛娘一人をのこして無念の思い(自死)で通り過ぎていったのだろう。

≪「伯父さん、蝿がおるでしょう。蝿はね、蝿打ちをこうしてすると逃げるでしょう。あれはなんで逃げるか知っちょる?」
「それは、追うから逃げるい」と、伯父が答えると、
「ううん、そうじゃないよ。それは、蝿打ちを振り上げた時にすっと風がいくから、それが蝿の羽にあたってわかるから逃げるんだよ」≫(平凡社・別冊太陽「金子みすゞ」)

とは詩人、金子みすゞの小学校低学年の時のことば。見えないものを見る目、感じる心の天与を示しているだろう。さてその仏、慈悲の目、こころからでたことばのかずかず。


 <露> 誰にもいわずにおきましょう。/朝のお庭のすみっこで、/花がほろりと泣いたこと。/もしも噂がひろがって /蜂のお耳へはいったら、/わるいことでもしたように、/蜜をかえしに行くでしょう。


<お魚> 海の魚はかわいそう。/お米は人につくられる、/牛は牧場でかわれてる、/鯉もお池で麩(フ)を貰う。/けれども海のお魚は/なんにも世話にならないし/いたずら一つしないのに/こうして私に食べられる。/ほんとに魚はかわいそう。 


<仔牛> ひい、ふう、みい、よ、踏切で、/みんなして貨車をかずえていた。/いつ、むう、ななつ、八つ目の、/貨車に仔牛が乗っていた。/売られてどこへ行くんだろ、/仔牛ばかしで乗っていた。/夕風冷たい踏切で、/みんなして貨車を見おくった。/晩にゃどうして寝るんだろ、/母さん牛はいなかった。/どこへ仔牛は行くんだろ、/ほんとにどこへ行くんだろ。


<私と小鳥と鈴と> 私が両手をひろげても、/お空はちっとも飛べないが、/飛べる小鳥は私のように、地面を速くは走れない。/私がからだをゆすっても、/きれいな音は出ないけど、/あの鳴る鈴は私のように/たくさんな唄は知らないよ。/鈴と、小鳥と、それから私、/みんなちがって、みんないい。


<こだまでしょうか> 「遊ぼう」っていうと/「遊ぼう」っていう。/「馬鹿」っていうと/「馬鹿」っていう。/「もう遊ばない」っていうと/「遊ばない」っていう。/そうして、あとで/さみしくなって、/「ごめんね」っていうと/「ごめんね」っていう。/こだまでしょうか、/いいえ、誰でも。


<蜂と神さま> 蜂はお花のなかに、/お花はお庭のなかに、/お庭は土塀のなかに、/土塀は町の中に、/町は日本の中に/日本は世界の中に/世界は神さまの中に/。そうして、そうして、神さまは、/
小ちゃな蜂の中に。


<さびしいとき> 私がさびしいときに、/よその人は知らないの。/私がさびしいときに、/お友だちは笑ふの。/私がさびしいときに、/お母さんはやさしいの。/私がさびしいときに、/佛さまはさびしいの。


<誰がほんとを> 誰がほんとをいうでしょう、/私のことを、わたしに。/よその小母さんは ほめたけど、/なんだかすこうし笑ってた。/誰がほんとをいうでしょう、/花にきいたら首ふった。/それもそのはず、花たちは、/みんな、あんなにきれいだもの。/誰がほんとをいうでしょう、/小鳥にきいたら逃げちゃった。/きっといけないことなのよ。/だから、言わずに飛んだのよ。/誰がほんとをいうでしょう、/かあさんにきくのは、おかしいし、/「私は、かわいい、いい子なの?/それとも、おかしなおかおなの?」/誰がほんとをいうでしょう、/私のことを、わたしに。


<蓮と鶏> 泥のなかから/蓮が咲く。/それをするのは/蓮ぢゃない。/卵のなかから/鶏が出る。/それをするのは/鶏ぢゃない。/それに私は/気がついた。/それも私の/せいぢゃない。


慈しむ孤愁の心の童謡詩人のまなざしは、ジッと<現>としての世界を、<在る>ということを見ていた。

<角の乾物屋の ―わがもとの家、まことにかくありき―> 角の乾物屋の /塩俵、/日ざしがかっきり /もう斜(ななめ)。/二軒目の空家の /空俵、/捨て犬ころころ/もぐれてる。 /三軒目の酒屋の /炭俵、 /山から來た馬 /いま飼葉。 /四軒目の本屋の /看板の、 /かげから私は /ながめてた。







テルーの唄


白鳥は哀しからずや空の青海のあおにも染まずただよふ  若山牧水

<現>――
「そこ」に投げ出されている存在としての人間、それを「現存在(Dasein=そこにある)」と称する。存在するその<現>において存在の意味が了解され顕かになる、その「そこ」が<現>である

「現存在は、単に他の存在者の間に並んで現れる存在者ではない。それはむしろ、自己の存在においてこの存在(=「ある」ということ)そのものに関わっていることによって、存在的に際立たされているのである。…この存在者には、自己の存在と共に、この存在を通して、この存在が自分自身に開示されている、ということが具わっているのである。存在了解そのものが、現存在の存在規定なのである。」――M.ハイデッガー