諸井誠『尺八と弦楽合奏、打楽器のための協奏三章』(1970)ほか。十二音技法を主是とする数理的構成主義者であり、モダニストの伝統と西洋が響きあう交感感応には自立自存、崇敬・RESPECTが響いている。
≪伝統とは過去のものではなく、われわれが現在生活している「社会的・歴史的・人種的・血族的・家族的その他もろもろ、われわれを生かし、律している条件のすべての中に内在している行為的な秩序の総体」・・・事物とわれわれの関わり方を律する下部構造的な秩序であると同時に、事物とわれわれの関わりによって生じた新しい環境の中で、おのずから新しくされてゆくわれわれ一人一人の感性的秩序の総体でもある。したがって、伝統について考えるということは、現実の問題としては、ある個人と事物との独特な関わり方を考えるということを除いては成り立たないであろう」(大岡信のことば)・・・つまり伝統とは過去が問題なのではなく、われわれの現在の内部にあって現に働きかけるものこそが論ずるに足るものなのである・・・伝統には保守も急進もあるわけがない。だが、現代の生きたアクチュアルな問題と取り組む創造的な作家のなかでこそ、はじめて伝統が新しく息づき、意味をもって浮かび上がってくるのだ。≫(秋山邦晴・「日本の作曲家たち」)確かに民族楽器を使う使わないなどの問題ではないのだ。今日取り上げる我が国で本格的な十二音技法での作品を提示したモダニスト諸井誠の『尺八と弦楽合奏、打楽器のための協奏三章』(1970)を聴くと、まさに至言といえよう。武満徹のかの「ノベンバー・ステップス」(1967)での尺八と琵琶という伝統楽器の自立自存した登場は、一層の伝統の深みと余韻を奏でたのだった。同様、この諸井誠の作品での尺八、小鼓、大鼓、能の掛け声などの存在の見事な自立自存、伝統なるものの現代(西洋音楽・モダン)への切れ込みは、深く且つ鋭い。すばらしく生きているのだった。添え物でないことのすばらしさといえよう。いままで私はこの作曲家を≪十二音技法、ミュージック・コンクレートなどの新技法を早い時期に実践した作曲家のひとり。≫(WIKIPEDIA)として、また黛敏郎との共作での我が国初の電子音楽の果敢者として名を記憶に留めていたけれど、十二音技法を主是とする数理的構成主義者であり、モダニストとのみ軽くみていたようだ。このブログ記事のためにアルバムを聴きかえしてみて、たんなるモダニストとして括ってしまうのはあまりにも軽率の謗りをまぬかれないのではと思った。それほどにこの『尺八と弦楽合奏、打楽器のための協奏三章』(1970)は、日本的余韻・余情を感じさせる武満作品に伍すモダニストからする<伝統>なるものの真率な受容の姿を見事に示しているものと思われる。伝統と西洋が響きあう交感、感応には崇敬respectが響いている。(ちなみに、この作品より前の64年に伝統楽器尺八との鮮烈な出会いを作品とした【魂の奥底まで響きこむ尺八のムラ息に気迫のノイズ吹きすさぶ諸井誠『竹籟五章・対話五題』ほか】をブログ投稿している)。もう一曲は1966年に作曲された、これぞ数理的構成主義者、モダニズムの記念すべき見事な成果といえる『ピアノ協奏曲第1番』。この年に前後して武満徹の「ノヴェンバー・ステップス(November Steps, 1967年)(琵琶、尺八、管弦楽)、間宮芳生のオーケストラのための2つのタブロー'65および松村禎三『交響曲・1965』、それに三善晃ヴァイオリン協奏曲 (1965)と豊穣の年であった。こうした歴史に刻まれた日本現代音楽の名作の一つとして今日の諸井誠の『ピアノ協奏曲第1番』を聴くべきである。力強い清新のモダニズム構成主義の響きはことのほか確信に満ちている。